ごきげんよう!さわこです

今日は日曜日。

私たちセブンスデーアドベンチスト教会は、キリスト教プロテスタントに属する一派のひとつであるけれど、日曜日には礼拝に与りません。

聖書の記述に従って、第七日目の安息日が礼拝日です。

十数年前、日曜日に礼拝をしている教会の初対面の信者さんに

「まあ、あなたがたは、日曜日に礼拝をしないなんて!いったい、いつ、礼拝をしていらっしゃるの?日曜日には何をしているの?」

と驚きの言葉を頂きました。

 

「聖書に従って、礼拝は第七日目の安息日です。イエス様も初代教会の弟子たちも、第七日安息日に礼拝されていたことは、四福音書や使徒言行録を読んでもわかります。ですから、私たちSDAはイエス様に倣って、神様を礼拝するのは、安息日である土曜日なんですよ。日曜日はイエス様に倣ってご奉仕の日です」

 

と答えましたら、その方は、安心したような笑顔になりました。

 

さて、今日の日曜日。

久しぶりに家族で讃岐うどんを食べにドライブしました。

家庭の日です。

帰宅後、洗濯物を取り込んだり、家事をしていると教会の友から電話が入りました。

「さわこさん、筍と蕗を山で採ってきたのでお届けしたいけれど、いらっしゃいますか」

グッドタイミングの時間帯です。まもなく、車の止まる音がしました。

 

「今年は、良い子が取れなくてねえ・・・」

私たちの土地では竹の子ことを「子」って呼ぶんです。

「私は、良い子じゃない子も好きよ。まあ、蕗も葉っぱが付いている!蕗の葉の佃煮もできるわ。うれしい!ありがとう!」

「どうぞ、お見棄てなくこれからもご指導くださいねえ」

 

私よりも一回りも年上の友ですが入信は私の方が早かったせいか、私を信仰の先輩とみなしてたびたびこのような気恥ずかしくなるご挨拶をいただくのです。

「神様が出会わせてくださった神の家族なのに、見捨てるなんてことありえないでしょう」

と笑いました。

こうした言葉の端々に、古い時代を生きてきた方ならではの身についた礼儀正しさが垣間見られます。

神様は、年下であっても信仰者としては先輩であるという彼の礼儀正しさを、『主にある謙遜』へと引き上げてくださり、清めてくださるのだという思いが湧いてきました。

次にお届けする先があるのでしょう。友はすぐに車に乗りましたが、私は、急いで窓をコンコンとたたきました。

「お祈りをさせてもらっていい?」

「うれしいなあ。お願いします。」

彼は手を組んで頭をたれました。

 

「私たちの父なる神様、イエス様の復活の記念日である日曜日に○○さんが、筍を届けてくれました。○○さんを神の家族として与えてくださいましたこと、ありがとうございます。

神様はご自分が創造された木の葉の一枚一枚に、美しい花びらの一枚一枚に『神は愛である』と、書いてくださいました。

竹の子も、蕗も、私たちの天のお父様の作品です。愛の結晶です。

今日、神様の愛を、○○兄弟の友愛をご馳走になることができます。

ありがとうございます。○○さんの信仰をお守りください。

○○さんにイエス様の御愛を注いで、聖霊を満たしてください。

これから、運転して帰られる○○さんをお守りくださいますように。

尊き主、まもなく来たりたもうイエス・キリスト様のお名前を通してお祈りします」

 

筍と蕗を抱えて手を振って彼の車を見送りながら、祈りの天使が舞い降りて来てくださったと感謝しました。

 

新しい牧師の赴任と共に、私は祈りのチャンスを見逃すことが減ってきたなあと実感しています。昨日も礼拝の後、三人の友と個人的に祈りました。

でも、振り返ってみると、そのチャンスをまだまだ逃していたと気づきました。

 

マラナ・タ

神様ごめんなさい。長い祈りでなくていいのですから、教会でご一緒する友との祈りの機会を見過ごすことがありませんように助けてください。