ごきげんよう!さわこです。
「ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私の言葉はその時が来れば実現します」
ルカ1:20
祭司ザカリヤと妻、エリザベツには子供がいませんでした。神に忠実な二人でしたが、にもかかわらず、子宝に恵まれないまま年輪を重ねていき、子どもを産める年齢を超えてしまったのでした。御使いによって子どもを授かると聞いても信じられません。
アブラハムとサラの物語を彷彿させます。信仰の父と言われるアブラハムにも子がなくアブラハム百歳、サラ90歳の時にようやくイサクが生まれたのでした。この時にも御使いが現れて預言しその通りになったのでした。
どちらの夫婦にも、「その時が来て神の言葉が実現した」のでした。
常識で考えるなら、90歳の女性が妊娠するはずはありません。
しかし、神のご計画であるならば、みこころであるならば、実現するのです。
私は、聖書のこの二組の夫婦のとてつもなく高齢であるにもかかわらず、子どもが生まれたということを事実だと信じています。「人にはできなくても神にはできる」からです。
しかし、現実では同様のことが信仰によって起きるとは信じていません。
それは、私の信仰が不足しているからでしょうか。
信仰篤い信者は、現代でも同じことが起きると信じているのでしょうか。
私の知人に、子どものない夫婦がいました。結婚して10年が来ようとしています。二人とも子供が好きで親になったらそれは良い親になるだろうと予想できました。その夫婦だけでなく、また別の私の親しい夫婦も子どもに恵まれないままに50代に入りました。伯母夫婦にも子供がいませんでした。見回してみると、この家庭に生まれた子供はきっと幸せになるだろう、という夫婦に子どもが恵まれないということはしばしばあります。
一方、ある夫婦のもとに生まれた子どもが虐待されて死んでしまった事件もあります。
いったい、神様はどのような計画を持っていらっしゃるのでしょうか?
理解できないことの一つでもあります。
さて、熱心なクリスチャンAさんが、子供のいないクリスチャンB夫妻に「あなたたちにお子さんが生まれるように祈っています。あなたも熱心にお祈りをしなさい」と言ったと話してくれました。私は驚いて、「それは、あなたが心の中で祈ることであって、当事者に向かって言うことではないと思います」と言いました。Aさんは、私以上に驚きました。「なぜ、いけないんですか?信じて祈れば、祈りは聞かれると聖書に書いてあるではありませんか。あなたから、そのような考えを聞かされるなんて・・・」不本意な気持ちを隠し切れない様子でした。同じクリスチャンである「Cさんにも『Bさんところに早く赤ちゃんが授かるといいね』と話したら『そうね。そうなってほしいよね』と返事がありましたよ。みんな願っていることなのです。だから、Bご夫妻は勿論のこと、私たちも一緒に熱心に祈らなくてはならないことのはずでしょう。それを、あなたは心の中で密かに祈れというのですか。私たちは兄弟姉妹でしょう。それなのに、あなたは・・・私はあなたが分からない・・・」と情けない表情で私を見るのでした。
(私もあなたが分からない・・・)と心の中でつぶやきました。
祈って、祈って、祈り倒したなら、神様は願いをかなえてくださるとでもいうのだろうか・・・確かにイエス様は、諦めないで祈りなさいと何度もおっしゃった。Aさんの方が神様に忠実な祈りだろうか・・・。もし、私が、待っても、待っても、何年待っても子どもが与えられない場合、Aさんのように言われたならば、励まされてうれしいだろうか。Aさんと出会う前から、このことは祈ってきたのに、Aさんは祈りの真剣さが足りないと言う。それだけ、B夫妻のことを身内以上に案じているのだろうけれど・・・Bさんは、どう思われたのかしら。喜ばれたのかしら。Bさんが私と同じ反応を示すとは限らない。でも、私なら、Aさんから心の距離を離してしまうかもしれない。サラは90歳でイサクを産んだ。エリザベツがヨハネを産んだのは、何歳だっただろうか。高齢だったとしか聖書には書かれていない・・・B夫人も90歳で出産なさるのだろうか。その時が神様の時であったら・・・不思議な世界に迷い込んだような気持ちになりました。
ずいぶん昔ですが「パウロはどうして結婚しなかったのでしょう?」とたずねた時、牧師の答えに圧倒されました。
「パウロには独身の賜物があったからですよ」
なるほど!納得!
(子供のいない夫婦には、子どもを持てない賜物があるということですね!)
と私は口に出さずに理解できました。
時代によって、文化によって、国によって、結婚の形はそれぞれです・・・
しかし、その牧師との問答以降、私は結婚も出産も神様の領域だと思うようになりました。
長く生きていれば次第にわかってきます。
いくら祈っても、人間の願う形で祈りがきかれるのではないことが。
確かに神様は、私たちの祈りを聞いてくださいます。
それが、自分の願う方法で応えられるか、どうかは別問題なのです。
自分の願う方法ではなく、神様のよしとされる方法で応えられるのです。
その時が来れば、神様の方法が実現されるのではないでしょうか。
有名な祈りの詩を思い出しました。
「応えられた祈り」 作者名不詳 山形謙二訳
功績を立てようと、神に祈り求めたのに
謙遜に服従するようにと、弱さを与えられた。
より大きなことをしようと、健康を祈り求めたのに
より良いことをするようにと、病気を与えられた。
幸福になるようにと、富を祈り求めたのに
賢くなるようにと、貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに
神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた
人生を楽しもうと、あらゆるものを祈り求めたのに
あらゆるものを楽しむようにと、人生を与えられた。
祈り求めたものは何一つ与えられなかったのに
実は私が望んでいたすべてのものが与えられた。
このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ
すべての人にまさって、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。
ザカリヤは、天使の言葉を信じようとしなかったので、期間限定で口が利けなくなりました。
サラも御使いたちの出産の予告を聞いて笑いました。
ザカリヤもサラも信じなかったのです。不信仰だったということでしょうか。
しかし、神の言葉は、にもかかわらず、実現しました。
神の言葉は、不信仰であったにもかかわらず、時が来れば実現するのです。
私はイエスの十字架の贖いを我がためなり、と信じています。
しかし、高齢になった時「来年、あなたは出産しますよ」と天使から言われたなら、ザカリヤやサラのような反応を示すと思います。
日頃の信心はいったいどうしたのか?と、Aさんに言われるかもしれません。
私の信仰は完全ではないのです。
大元では、イエス様につながっていても、風が吹けば揺れる木の葉のようです。
絵に描いた木はどんなに強風が吹こうとも揺れないが、生きている木は枝も葉も揺れる、と渡辺和子シスターが何かの本に書いてあったことを思い出しています。
マラナ・タ
人間の側がどうであろうとも、時が来れば神の言葉は実現する。