ごきげんよう!さわこです。

 

私は、今朝、次第に明確になって行く意識の中で、神様から今朝の祈りを頂きました。

起き上がり、デボーションノートを開いて、いただいた祈りを記しました。

それから、今日の聖書通読箇所(ネヘミヤ11,12章。ヨハネ第二の手紙全章)を読み、ヨハネ第二の手紙から頂いた祈りをノートに綴りました。

 

「主よ、私のうちに真理を宿らせ、父なる神とその独り子イエス・キリストが、恵みとあわれみと平安を注いで、私たちを祝福してください。互いに愛し合いなさいという、主のご命令に喜んで従うことのできる者となさしめたまえ。偽教師たちに注意できる識別力、用心深さを願い求めます。」

 

その後、安息日学校ガイドのテキストの本日分を読み、それから、ホワイト選集「人類のあけぼの」上11章を開きました。

昨夜、橋川真理さんの「ヨブ記」の学び11課をYouTubeで聞いたのです。

10課を聞いた後、続きを聞きたかったのですが、いろんなことに取り紛れて先延ばししていました。

そのときにホワイト選集「人類のあけぼの」上11章が読まれました。そこを確認したかったのです。

 

EGホワイトは、私たちSDA教会に与えられた預言者です。

ホワイト選集「人類のあけぼの」上11章「神の召しに応じたアブラハム」127頁―128頁

から紹介します。

以下、転載 青字(特に大切だと思ったところはピンクで)

 

主は、摂理のうちに、この試練を与えて、服従、忍耐、信仰などの教訓を教えようとなさった。この教えは、後で苦難に耐えるように召されるすべての人のために記録されることになった。

神は、神の子らを彼らの知らない道に導かれるが、神は、神に頼る者を忘れたり、見捨てたりなさらない。

神はヨブに苦難がのぞむのをお許しになった。

しかし、神は、彼をお見捨てにならなかった。

神は愛するヨハネが、パトモスの孤島に流されることを許された。

しかし、そこで神の御子がヨハネに会われた。

神は神の民が試練に会うのを許される。それは、彼らが神らの模範によって、他の人々に奨励を与えるためである。

 

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災いを与えようというのではなく、平安を与えようとするものである」

(エレミヤ29:11)

われわれの信仰を最もきびしく鍛え、神は、あたかもわれわれを見捨てられたのかと思わせるような試練そのものが、実は、われわれがすべての重荷を主のみもとにおろして、それに代えて彼がお与えになる平和を味わうことができるように、われわれをキリストのそば近くに導かれるのである。

 

神は、常に神の民を悩みの炉の中で試みてこられた。

クリスチャン品性という純金から不純物が取り除かれるのは、炉の火の中においてである。

イエスは、この試練を見守っておられる。

神は、綿密なきびしい試練によって、そのしもべたちを訓練なさる。

神はある人が神のみわざの進展のために役立つ能力をもっているのを見られて、そのような人々を試される。

神は摂理のうちに、彼らの品性をためす地位に彼らをおいて、彼ら自身でも気づかなかった欠点や弱点をあらわされる。

神は、彼らがこれらの欠点を直して、奉仕にふさわしいものになる機会をお与えになる。

神は彼ら自身の弱さを示して、神に頼ることをお教えになる。

なぜならば、神が彼らの唯一の援助者であり、保護者だからである。

こうして神の目的は達成される。

彼らには、大目的達成のための教育、訓練、鍛錬、準備などが与えられる。

彼らの力は、そのために与えられたのである。

神が彼らを活動に召されるとき、彼らは準備が整っている。(転載、終わり)

 

ここを読んだ時、今朝、私が頂いたお祈りは、昨夜きいた橋川さんのヨブ記解釈の影響を受けていたことに気づきました。

私は「神様は何故、これでもかこれでもか、と試練をお与えになるのか」と、いつも神様からの解答を求めていたのでした。原因探し問題探しをする限り、そこにあるのは「信仰」ではなく「評論」ではないだろうか、と思ったのでした。ですから、EGホワイトの見解に私は納得できたのでした。

 

マラナ・タ

そして、それが、目覚めの祈りとなったのかもしれません。