ごきげんよう!さわこです。
12月になってから、クリスマス関連行事に追われて恵まれた時を過ごしています。
家業も忙しい上に、一人暮らしの弟が病気になり、娘の仕事の応援も頼まれて、それでも、恒例のキャロリングに腹話術人形のななちゃんと一緒に飛び回っています。
そんな日常ですが、聖書通読も、デボーションも、読書も、続けられるのですから、神様が、私の健康を支えてくださり、時間を支配してくださりありがたい限りです。
しかし、ブログへの投稿も20日ぶりになってしまいました。
サラ・ヤング「わたしは決してあなたをひとりにしない」11月20日が目に留まりました。
読んでいるうちにデボーションに導かれました。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)
主は、私たちと共にいることを喜ばれます。
主の喜びが、私たちを照らして下さっていることを忘れることがありませんように。
私たちは、主の愛を受けるために完璧に振る舞うことなどしなくていいのです。
完璧であることに気をとられてしまうと、あのパリサイ人たちのように形式主義に引き寄せられてしまいかねません。
そして、自分自身の良い働きを崇めるという偶像崇拝にもなりかねません。
そればかりか、自分の働きが、自分自身の期待にかなわなかった時には、深い落胆のもとにもなってしまうのです。
私たち自身の行いから、主ご自身の輝かしい存在へと、焦点を移してごらんなさい、と主はささやきます。
主の愛の光は、私たちの感情や行動にかかわらず、常に私たちを照らしてくださっています。私たちはこの無条件の愛を受け入れさえすればいいのです。
そして、それを受け入れるために、もっとも重要なものは感謝と信頼です。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケ第二5:16-18)とパウロは勧めています。
いつも喜ぶこと、いつも感謝することの大切さを、私たちはあらゆる立派な人から教えられてきました。
では、クリスチャンは誰から教えられるのでしょうか。
どなたがこの教えを実行することを望んでおられるのでしょうか。
パウロは言います。
「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」のだと。
私たちは喜べない時、祈れない時、感謝できない時はないでしょうか。
あります・・・ありますとも!
私たちはゆたかな感情をもった肉なる存在ですから。
でも、キリスト・イエスを我が主、我が神、わが救い主と信じて、神の子とならしていただいた今、私の力や頑張りではなく、イエスの恵みが、喜び、祈り、感謝をくださいます。
イエスの心の中に、私が溶け込んでいき、私の心の中にイエスがおいでくださる時、イエスの祈りが私の祈りとなります。
ほら、喜びがふつふつと湧いて来る・・・ただただ、ありがたくて、ありがたくて・・・
そう、この気持ち、この思いは、熟語で言えば「感謝!」
そして、この続きの19節20節がさらに浸み込んできました。
「“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。」
イエスと一つになる時、私の内には“霊”の火が灯ります。
預言とは「聖書の言葉」イエスの言葉。
私は、いつも、御言葉にうちに歩んでいきます。
21節「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」
22節「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。」
パウロによって語られるこの言葉も、「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられる」ことですから。
「どうか主よ、私に識別力をお与えください。私を試みに合わせず、悪より救い出してください。私は弱い者ですが、私を強めてください」と祈ります。
パウもまた、こう祈ってくれています。
「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力を持ってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかり立つものとしてくださるように。また、あなたがたが、すべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」
(エフェソ3:16-19)
パウロの初代教会信徒たちに向けてのこの祈りは旧約聖書によるものでした。
「わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎだせ。
神はわたしたちの避けどころ」(詩編62:8)
パウロは使徒言行録22:3でこのように自己紹介しています。
「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました。」そしてパウロはクリスチャンを迫害していたにもかかわらず、回心したこと、異邦人のための宣教者として主に召されたことを語ります。
パウロはユダヤ教神学に詳しい超エリートのユダヤ人だったばかりか、ローマの植民地となっているユダヤの国において生まれながらにローマ市民でもあったのです。
パウロは、現在、旧約聖書と呼ばれるようになったヘブライ聖書にそれは詳しかったのです。
パウロは新約聖書という新しい聖書を造った人でも、新しい神学の創始者でもありません。
彼は、ダマスコへの途上で、復活の主イエスに出会って、旧約聖書で預言されていたメシアがナザレのイエスであったことを理解したのでした。
福音書も、書簡集も、新約聖書に書かれていることは、すべて旧約聖書と同じです。
世界には「イエス」を偉大なる教師、偉大なる預言者として、メシヤ(べブライ語で救世主)ともキリスト(ギリシャ語で救世主)とも、認めない人々もたくさんいます。
知識として認めていても、個人的には受け入れない人もいます。
聖書はそうした人々を「失われた魂」「失われた人々」と呼んでいます。
「勝手に『失われた』なんて決めつけるな!」という怒りの声が聞こえてきそうですが(笑)
エデンの園で、禁断の実を食べた時から「人は失われた存在」となりました。
神様から離れてしまったからです。
エデンの園で「どこにいるのか」とアダムに呼びかけた神様は、今も世界中の人々にも呼び掛けているのです。
「どこにいるのか?かえっておいで」と。
そのために、三位一体の「父・御子・御霊」の御子なる神様が地上に降られたのでした。
御子イエスの誕生日は12月25日ではありませんが(本当は仮庵の祭りの頃だと・・・)
旧約聖書の預言通りに、御子なる神が、聖霊によって赤子として乙女マリアよりお生まれになったのでした。
マラナ・タ
安息日に入っています。
明日の安息日礼拝は、クリスマス(キリストの祭り)を記念するクリスマス礼拝とクリスマス集会です。
昼食は、持ち寄りのパトラック。
レンズマメとじゃがいものボールコロッケを昼間の内に準備しました。
明日の朝、早起きして油で揚げたら出来上がりです。
100個用意しました。