ごきげんよう!さわこです。

今朝、聖書通読の後、EGホワイトの「各時代の希望 中巻 第58章」を読みました。
受けた恵みが私の霊に優しくしみわたりました。

マルタとマリヤの物語です。
物語と言うと、フィクションかと思いますがこれは実話です。
教会の女性たちにとって愛されているお話ですが、ともすれば○○さんはマルタタイプね、△△さんはマリアタイプだわね、と性格論といったディスカッションに陥ってしまうとしたらもったいないなあと思います。

EGホワイトは、
「マルタのような人たちが、熱心に宗教活動をする広い分野がある。しかし、彼らをまずマリヤと一緒にイエスの足もとに座らせなさい。勤勉と敏速と精力とをキリストの恵みによって清めなさい。そのとき、そのような生活は、征服されることのない善の力となるのである。」と書いています。

キリストがすばらしい教訓をお与えになる時、マリヤは敬虔で熱心な聞き手となって、その足もとに座って、イエス様の口から出る尊い御言葉を心に蓄えていました。

あるときマルタは、キリストと弟子たち一行の疲れをねぎらうことに心を奪われて、その熱心さのあまり『主よ、妹が私にだけ接待をさせているのを何ともお思いになりませんか。私の手伝いをするように妹に仰ってください』と言ったのでした。

そのとき、イエス様は穏やかに『マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである』と言われたのでした。

勿論、イエスの言われたことは、労働よりも学びの方に価値があるとか、肉体労働よりも知的労働の方が高級だとか、労働は下僕や奴隷にさせておきなさいという意味ではありません。

マルタにとってもマリヤにとっても、どのような人間にとっても、一番大切なことは、イエスの語られる言葉を聞くことなのです。
なぜなら、キリストの言葉は命の言葉であり命のパンであり、そしてキリストの言葉を聞くことによって神様との関係がはじまるのですから。

パウロはローマ書の中で、こう書いています。「実に信仰は聞くことにより、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです」ローマ17:10

イエスは、ご自分の子らに、救いに至る知恵を与える知識を得るあらゆる機会をつかむように教えようと望んでおられるのです。

「マルタにとって必要な『一つのもの』は、落ち着いた、信心深い精神、未来の永遠の生命について知りたいというもっと強い熱望、霊的進歩に必要な徳であった。
彼女は、過ぎ去ってしまうものに対する関心よりも、永遠に続くものに対する関心の方が必要だった。」
とEGホワイトは書いています。

マリヤは、『自分にとって必要な一つのもの』を求めていました。それを与えてくださるのがイエス様であることを分かっていました。

マルタにとっても、イエス様は格別に大切なお方でありました。
そしてまた、率直に甘えることのできるお方でもあったのです。

「ねえ、ねえ、イエス様、マリアったらお手伝いもしないんですよ。ちっとは姉さんの手伝いもするように言ってくださいな。イエス様のために素晴らしい御馳走を今作っているところなんですよ。本日のメニューは、とびっきりの美味しいものを用意しているんですよ」
と、マルタは得意の料理でイエス様をもてなそうと張り切っていたのでしょうね。

「だってイエスさまは長距離を歩いていらして、とてもお疲れだしお腹だって空いていらっしゃることでしょう。お疲れのイエス様にお話なんかさせないで、静かに休息させてあげることもおもてなしでしょう、マリヤったら、そんなこともわからないのね、もう非常識で困っちゃうわ。自己中心なんだから。『私は疲れているからマリヤ、私に休息の時間をくれないかな』などとはお優しいイエス様は決しておっしゃらないわ。だから、私の方で『マリヤよ、姉さんの手伝いをしてやっておくれ』と言える雰囲気を作って差し上げなくちゃ」

私にはそんなマルタのつぶやきが聞こえてくるようです。
しかし、こうしたもてなし方、気配り、配慮は、マルタの勝手な思い込みに過ぎませんでした。

十字架の死を目前にしたイエス様にとっては、休息やご馳走といった肉的なものに属することよりも、緊急に伝えなければならないことがあったのです。
地上の命のことではなく、永遠の命に関わることを伝えなければならなかったのです。
イエス様は弟子たちにもお話になりましたが、弟子たちには十分には伝わりませんでした。弟子たちにとっては、イエス様は憎きローマ帝国を覆して、ユダヤの国を再興してくれるメシアであるとの思い込みが強かったのでした。
ペトロなどは、イエス様のお話を聞いて「とんでもないことです!」とイエス様に向かって意見さえもしたではありませんか。

イエス様はだまって耳を傾けるマリヤに、ご自分のお話の核心が伝わっていると実感を持たれたのではないでしょうか。

「無くてはならぬただ一つのもの」はマリヤだけのものだったのでしょうか。
いいえ、マルタにとってもそうだったのです。
しかし、マルタは、自分にその必要性があることに気づいていませんでした。
マリヤはそのことに気づいており、必要なただ一つのことを選びました。
イエス様は「マリヤからそれを取りあげてはならない」とおっしゃいました。
気づいた者の大切な選びを、その大切さに気づかない者が取り上げようとしていることをイエス様は、優しくたしなめられたのだと思います。

ヨハネ12章1-8節にこんな記事があります。
過越し祭の六日前にイエスはベタニヤに行かれました。
そこでは、死者の中からよみがえったラザロがいて、イエス様のために用意された夕食の給仕をマルタがしていました。
そしてマリヤは純粋で非常に高価なナルドの香油をイエス様の足に塗ったのでした。
弟子のイスカリオテのユダがマリヤの行為を批判します。
しかし、イエス様は「私の葬りのための準備をしてくれているのだ、この人のするままにさせておきなさい」と言われたのでした。

なぜ、マリヤは葬りの準備をできたのでしょうか。
「マリヤは主の足もとにすわって、その話に聞き入っていた(ルカ10:39)」からではないでしょうか。

このことに私が気づかされたのは、二年前の12回目の聖書通読の時でした。
11回目の通読のときまでには、まったく気づかなかったのです。

同じ話を聞いてもペトロたち12弟子は、理解できませんでした。
マルタは聞こうとさえしませんでした。

イエス様を愛する者たちであっても、聞いたことが自分の中で腑に落ちる、腹にしっかり入るには、それぞれ「時」が違うのかもしれません。

今はまだ分からないかもしれませんが、分かるのは数年後、数十年後ではなく、明日かもしれないのです。

「主よ、今日あなたから頂いた御言葉を、できる限り速やかに理解させてください。しもべは聞きます。どうぞ、教えてください。」と祈り続け願い続ける者でありたいと思います。

マラナ・タ
私にも神様から頂いた賜物があるはずです。
私はあなたさまの御前にひざまずいて聞きますので、
どうぞキリスト様の恵みによって清めてください。
そしてその賜物をふさわしい時にふさわしく用いる者とならしめてください。