ごきげんよう!さわこです。

今朝、聖書通読の後、
主の声に耳を澄ます「わたしはけっしてあなたを一人にしない」(サラ・ヤング)の本
を開きました。

今日は10月5日。
この日、サラさんは、ハバクク3章17-18節から主の声に耳を澄まされました。
私の今朝のデボーションは、通読箇所からではなく、サラさんの本からとなりました。

いちじくの木に 花は咲かず
ぶどうの枝は 実をつけず
オリーブは 収穫の期待を裏切り
田畑は 食物を生ぜず
羊は おりから 断たれ
牛舎には 牛がいなくなる
しかし わたしは主によって喜び
わが救いの神のゆえに踊る

           (ハバクク3:17-18)

ハバクク書も通読の数プラスαの回数を読んできていますが、17節の聖句の印象があまりなかったのです。
18節は、私の仲良しの若い母親の好きな聖句だったので記憶がありました。

「××× しかし、○○○」

神様はいつもおしゃるのです。
「×××である、だが、しかし
×××であっても、にもかかわらず
たとえ、そうでなくても・・・」
と。

私たちの人生は「花が咲かず、実をつけず、生ぜず、裏切られ、断たれ、喪失する」ことが何と多いことでしょう。

私の大切なMは21世紀のヨブとして生きています。

サラ・ヤングさんは、主からの語り掛けをそのまま文字に写します。
ですから、「主=わたし」となります。
直接、主がサラさんに語り掛けているからなのでしょうね。
サラさんが「主の僕」であるからでしょうね。女性の場合は「主のはしためでしょうか。


・ 喜びはその人の置かれた状況には左右されない。

・ 本当の喜びは、神(主イエス)のもとで生きることの副産物です。

・ イエスと共に生きているならば、どこにいても、どこにおいても、喜びを味わうことができる。

・ 問題はあるだろうが、問題は二番目に置いて、主イエスのもとで生きることを第一番目の目標とするならば、どんな困難な日々であっても、喜びを見いだすことができる。

・ 主イエスとの心の触れ合いを保つことに集中しなさいね。


マラナ・タ
Mよ、あなたの苦しい問題に、私は何の手助けができるでしょうか。
頭が痛いと言えば、鎮痛剤を、
指に怪我をしたと言えば、カットバンを。
そういうことぐらいしかできません。
悲しむあなたに、「喜べ喜べ」などと言うことが
どれほどあなたを苦しめることになるかも知っています。
ただ、イエスが側にいてくださるこの事実を受け入れてください。