ごきげんよう!さわこです

今日の日めくりカレンダーの聖句は
「聖書はわたしについて証するものだ」ヨハネ5:39

朝から、この御言葉が私の内でくるくる回っています。
39節を全部紹介します。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが聖書はわたしについて証しをするものだ。」

あなたたちとは?
私を含む人類すべてであるとも、ユダヤ人とも、ギリシャ人とも、時代を超えて聖書に関心をもって手にした人とも、言えると思います。
聖書の中に永遠の命があると考えている人は、ヨハネの時代にいたのです。
今の時代では、単なる書物の中の一つに過ぎないと考える人もいます。
ユダヤ人はノーベル賞の授賞者が多いことやあらゆる分野での成功者が多いことから、聖書にその秘訣を求めて読む人もいます。そういう関連の本も多く出ていますね。

聖書には沢山の宝物が詰まっていますが、聖書の著者である神様は、わたし(イエス)について証しするものだ、と聖書を紹介しているのです。

40節には
「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」
とイエス様は言われています。
聖書に関心を持っても、作者である神(イエス)には関心を寄せない人のことを言っています。
聖書の時代に生きたユダヤ人でさえも、イエス様の言われることを理解できないし受け入れない人たちがいたのです。
聖書の専門家である律法学者やファリサイ派、祭司たちの中にも理解を示した人もいたでしょうが、信じないでイエスを憎んだ人の方が多かったことは福音書を読めばわかります。
聖書に詳しい階級の人は信じない。

そうした知識階級のエリートたちではない一般庶民であった漁師たち、また、卑しい職業だとみなされて「罪びと」だと決めつけられていた取税人や娼婦たち、病人たち、サマリヤ人のように軽蔑されていた異邦人たちの方がイエスをメシヤと受け入れたのでした。

ましてや時代背景も、言葉も習慣も違う日本人がわかることは難しいはずです。
それなのに、いつの時代にも分かり受け入れる人々がいました。

イエス様はファリサイ派に属する議員でもあるニコデモにこうお話しになりました.(ヨハネ3章1-21)
○ヨハネ3:3
はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない
○ヨハネ3:5
はっきり言っておく。だれでも水と霊によって、神の国に入ることはできない

以上のことを思い巡らせながら、パソコンを開きましたら、
私のブログにこのようなコメントを書いてくださった方がいらっしゃいました。
「・・・簡単にいうと聖書も本です。本を読んでどういう感想を抱くかは個人の自由です。
『この本の意図はこうに違いない』と解釈することも個人の自由です。しかし本当の意図は作者しか知りません。それなのに『こうに違いないし、こう読まない奴は間違ってる』と言い出すと、変な人になってしまいます・・・それは作者からしても迷惑な話だと思います。」

何というタイミング!私のデボーションに、刺激を与えてくれる内容ではありませんか!
なんとうれしいこと!
用事を済ませ、犬の散歩も済ませ、一日の疲れを感じながら、熱っぽいなと思いつつも、この気づきは書いておかなくてはならないという思いに駆られてパソコンに向かっています。


聖書の意図する本当のところは、作者(著者)である神しかわからない。
聖書を読んでどのような感想を持つかは、個人の自由であるのに、その受け止め方に間違いだのなんだの口出しするのはおかしいのじゃないか?という意見かと思いました。
そのとおりですね!

どのように読むか、どのように感じるか。
読む人の背景、現在の心の状態、成育歴、環境、状況、知識、理解力、読解力によって抱く感想はそれぞれですから、良いの、悪いの、など言い募るのは読んで感想を持った人の人格をとやかく言うようなもので、読者に対しても作者に対しても失礼きわまりないことだという意見に私も賛同できます。

ところが、聖書の不思議なところは、普通の本とは違うということ。
高学歴の人が理解できないのに、振り仮名がなければ漢字さえ読めないかもしれない人が理解できたりするのです。
それは、人間の知力で読むのではなく、神様の霊(聖霊、御霊、イエスの御霊などとも言います)に導かれて読むからなのですね。

「主よ、教えてください」と神様の御前に心を低くしてお願いするところに、主の霊が働かれ始めるのですね。

イエス様が「聖書はわたしについて証しするものだ」とおっしゃった「聖書」とは、一般的に旧約聖書と呼ばれているヘブライ聖書。イエス様も弟子たちも読んだ聖書のことです。
つまり、旧約聖書(ヘブライ聖書)はイエスを証ししている。

創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、モーセ5書と呼ばれる書には、

・ 過越し(ペサハ)、除酵祭(種入れぬパンの祭り)、
・ 七週祭り(五旬祭・シャブオット・ペンテコステ)
・ 仮庵の祭り(スコット)

これをユダヤの三大祭りと言われています。
この祭りも、聖所での犠牲の動物も、全部イエスの予型なのです。

これらの祭りを意識しながら、聖書通読をくり返していると、(年に何回も読まれる方もいらっしゃいますが、私は年に一回で読み終えます。今年で14回目の通読です)旧約聖書はイエス様を証ししている書であるということが、次第にわかるようになってきました。

これらの祭りに加えて
・ ラッパの祭り(ロシュ・ハシャナ、ユダヤの新年)
・ 大贖罪日(ヨムキプール)

あわせて5つのユダヤの祭りは、数年前からの私の深い関心事となっています。
まとめのレポートを書きました。仮庵の祭りは腹話術の台本にもなりました。

マラナ・タ
安息日に入りました。
創造と贖いの記念日であることを覚えて感謝します。