ごきげんよう!さわこです

昨夜来の激しい雨の音に、夜中に目覚めました。
寝付けなかったので、知人が貸してくれた古い「百万人の福音」を読んでいましたら、睡魔が襲って来たので、これ幸いとベッドへ。

いつもなら4時か5時の間には自然に目覚めるのですが、今朝は6時45分。
雨も降りやんでいます。
これなら、月に一度の超教派の朝祈祷会に参加できるわ、とそそくさと準備をして7時過ぎには自転車に乗って教会に向かいました。

いつもの聖書通読とデボーションは、今日は時間を変更することにしました。


今朝の参加者は5名。メッセンジャーはA牧師。
 マタイ6章5-8をお話しくださいました。
「祈るときには」との小見出しのある箇所です。

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らはすでに報いを受けている。だから、あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前からあなたがたに必要なものをご存知なのだ。」
そしてこの後に、有名な主の祈りをイエス様はお教えになります。

A牧師は、「今度の礼拝説教でここを話そうと準備しているところなのです。タイトルは『祈りに効能はありません』としたいところですが(笑)あまりに率直すぎるかと、今、検討中なのですよ」と言われて始まりました。

私は『祈りに効能はありません』のと仮題で、説教の核心がつかめたと思いました。
私の予想に違わずさらに深いメッセージをいただきました。

以下まとめました。

言葉数が多ければ、とは、熱心に祈るということでもあります。
勿論、熱心過ぎずに適度にほどほどに祈るなら・・・なんて軽率なことではないですよ(笑)

神様は、どのくらい祈ったからとか、祈らなかったからということで態度を変えるようなお方ではありません。
『祈りに効能はありません』とは、祈る人の願い通りの祈りの答えを頂けるという意味での祈りはきかれないということです。
いつまでも、自分の願い通りの答えが与えられるということを期待し続けるならば、本当の祈りはいつまでたっても出来ないかもしれません。

私たちは、○○すれば○○となる、という『祈りの律法主義』から解放されなくてはなりません。
信仰による救い、恵みによる救いでさえも、多くの人が律法主義的に理解しているのです。

『イエスを信じる信仰の故に救われる』と理解しているのです。
我々の信仰の故に、ではなくイエスの故に救われるのです。

『律法による行い』に代えて『信仰』を入れてしまうのです。
ですから、自分をほめたり、卑下したり、人の反応を気にしたりすることになってしまうのです。
イエス様は、ファリサイ人や律法学者のパン種に注意をしなさいとおっしゃいましたが、このことなのです。
私たち信仰者は、こうした律法主義との戦いは生涯続きます。

旧約聖書の時代において、イスラエルがバアルを拝むようになりました。
それは、イスラエルの内実がバアルを拝むようになったということです。

バアルは豊穣の神です。
いっぱいささげたら、いっぱい祝福を得ることができるという神です。
神が御人格を持たれたお方であるのではなく、人間側の願いをかなえてくれる僕、道具と見てしまうのです。
例えて言うならば、コインを入れたらなら、自分の願い通りのものが出てくる『願い事かなえ自動機』のごとくに考えてしまっているのです。

私たちは、そういった思考回路から解放されて自由にならなければなりません。
そこから、本当の祈りが始まるのです。

本当の祈りの効き目は、私たちが人間になることです。
神と私と人格的関係が結ばれる健全な関係です。
自分の益ばかりを求める祈りばかりを祈っているならば、それは人間になってはいません。


メッセージを頂いた後、参加者が順々に祈りをささげました。

そのあと、オレンジジュースを頂きながら、誰からともなく受けた恵みを分かち合いました。5人の人数ですから、(牧師2人+信徒3人)全員が話すことができました。

その分かち合いから、少し紹介します。
・ 自由は愛に向かうもの

・ 愛と自由は一体

・ 自由と愛に生きるのがキリスト者の生き方

・ 献金も教会を支える(維持する)ための神の愛への応答

・ 応答とは、強制でも義務でもなく、人間側の自由な責任であり、感謝の応答。

・ 奉仕も、献金も、神が志を与えてくださる。

・ その志(こころざし)以上の、働きや献金をしようとするときには、無理が生じてしまう。そこにこんなに頑張っているのにというつぶやきやいらだちが出てくるのですね。

・私たちは、律法主義が好きなんですよ。ラクですからね。

・イスラエルはエジプトで長い間、奴隷として暮らしました。その奴隷根性が、人はなかなか抜けきらないのですよ。

・イエス様は「真理は自由を得させる」とおっしゃいました。真理とはイエス・キリストご自身ですから、イエスを信じ、イエスと一つになり、イエスの心を心とするときに、奴隷根性である律法主義的な思考から解放されるのですね。

・日本語ではキクにはいくつもの漢字があります。
聞く、聴く、訊く、効く、利く、掬。それを祈れば効かれると思い込んでしまうふしもあるのですね。


マラナ・タ
志とは神から与えられて湧いてくるもの、自分の意志に捕われるものではないのだと思いを巡らせながら、幸いにも帰り道も雨に遭うことなく、9時過ぎには家路につきました。
掃除、洗濯、昼食の準備もできました。