第6章「わたしたちはその星を見た」

・ 東の博士たちは、自然界における神のしるしを調べてユダヤのベツレヘムへやってきた。その高潔さと知恵は尊敬されていた。

・ 神の光は、いつも異教の暗闇の中で輝いている。

・ ユダヤの祭司たちは、言い伝えを繰り返し、ギリシャ人やローマ人を異教徒として攻撃し、また、だれよりも罪びとを責めていた。

・ エルサレムの祭司たちと長老たちは、高慢と妬みのために、光に対して扉が閉ざされていた。

・ 後にイエス様がローマの百卒長に「イスラエ人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」と言われたが、この言葉は、東の博士たちについても言えたことだ。


 第7章「子供として」
・ イエスは少年時代、青年時代を小さな山村で過ごされた。この地上のどんな場所も、キリストがお住みになれば尊い所となるのであった。

・ 遠い昔の時代から、イスラエルの忠実な人々は、青少年の教育に非常な注意を払ってきた。主は子供たちに、赤ん坊の時からでさえ、神の律法とイスラエルの歴史に示されている神の恵みと大いなる力について教えるように命じておられた。

・ 歌と祈りと聖書の教訓が、成長する心に適用された。

・ 神の律法は、神のご品性のあらわれであって、その律法の原則を心に受け入れるときに、心と魂には神のみかたちが書き写されるということを、父母たちは子供たちに教えるのであった。

・ 教えの多くは口頭でなされたが、青年たちはヘブル語の書物を読むことも学び、旧約聖書の羊皮紙の巻物を開いて学んだ。

・ しかし、キリストの時代には、教育は形式的になり、言い伝えが聖書と入れ替わっていた。

・ 真の教育は、青少年が「熱心に追い詰めて捜しさえすれば、神を見いだせるように」することであった。ところが、ユダヤ人の教師たちは儀式のことばかりに注意を払った。神の言葉を個人的に受け入れることによって得られる経験は教育制度の中に立場を与えられていなかった。

・ 律法の原則は覆い隠され、優れた教育と考えられたものが、真の発達にとって、最も大きな妨げとなった。ラビたちの教育の下で、青少年たちの頭は固く狭くなった。

・ 子供時代、イエスは会堂の学校で教えを受けず、イエスの最初の教師はイエスの母と、預言者たちの巻物であった。

・ 救い主の公生涯の間に尋ねられた質問「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」という言葉は、イエスが読み書きがおできにならなかったということではなく、ラビの学校でラビの教育をお受けにならなかったということである。(ヨハネ7:15)

・ イエスは幼い時から一つの目的を持っておられた。それは他人を祝福するために生きるということであった。

・ イエスは目に見えるものの中から、神の生きた御言葉を示す実例をたえず引き出し、譬えを持って真理についての教訓を教えられた。日常生活の環境から霊的な教えを集められた。

・ われわれが、み言葉を通して天父をよく知ろうと努めるとき、天使たちがそばにきて、われわれの知識が強められ、われわれの品性が高められ洗練される。そして、われわれの愛情は神のもとに引き寄せられて、救い主に似る者となる。

・ 祈りを通して神と交わることによって知的道徳力が発達し、霊的な事物について思想を養う時に霊的な能力が強められる。

・ イエスの一生は神と調和した生涯であったが、イエスの品性を試みられるような場所に置かれ、われわれの模範となるために、われわれが出会わねばならないあらゆる戦いに遭われた。

・ 試み、貧乏、逆境、これらは純潔と堅固な志を発達させるために必要な訓練である。