ごきげんよう! さわこです。

数日前、若い信仰の友Nが「言霊についてどう考えていますか?」と質問してくれた。

言霊とは、古代日本で、言葉に宿っていると信じられていた不思議な力をいい、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。
そこで、言葉には「霊が宿る」「魂が宿る」と多くの日本人は、昔からなんとはなくそう信じているのではないかしら。

聖書では、創世記1章では神が「光あれ」と言われたことから始まって、天地万物は神の言葉によって成った。
このように神の言葉には、無から有を生み出す力があることが分かる。


またヨハネによる福音書は「初めに言があった」で始まっている。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によってなった。成ったもので言によらずに成ったものは何ひとつなかった。言のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。(」ヨハネ1:1-5)
 

 この「言」はイエス・キリストご自身を指す。

さて、私は先月からEGホワイトの「各時代の希望」の通読を始めている。

上巻から、順次紹介をしていっているのだが、今朝、中巻、33章を読んでいて、EGホワイトの「言霊」についての考えがよくわかる箇所を見つけたので、紹介したいと思う。


聖霊に対する罪についてのキリストの警告と密接な関係があるのは、むなしいことばや悪い言葉に対する警告である。

ことばは心のうちにあるものを示す。「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」(マタイ12:34)

しかし、ことばは、品性をあらわすだけではない。
ことばは品性に作用する力を持っている。
人は自分自身のことばに影響される。

サタンにそそのかされ、一時の感情にかられて、ねたみや悪い憶測などを口にし、本当に「信じてもいないことを口にする。

だが、口に出したことばは考え方に作用する。
自分の発したことばにだまされ、サタンにそそのかされて語ったことを事実として信ずるようになる。

一度、意見や決心を口に出してしまうと、面目にこだわってそれをひっこめることができないことが多く・・・ついには自分が正しいのだと信ずるようになる。

疑いのことばを口に出すことは危険である。
すなわち、天来の光を疑ったり、批判したりすることは危険である。

不注意で不敬な批判をする習慣は品性に作用し、不敬と不信の念を助長する。
この習慣をほしいままにしていた多くの人が、危険をいしきしないで続けているうちに、ついには聖霊の働きを批判したり、拒んだりするようになった。

マラナ・タ
日本的言霊思想と、相通じる部分もあるようですね。