各時代の希望・上巻 第二章「選民」より


神は人々の間に、神の律法について、また救い主を指し示している象徴と預言とについて知識を残すために、イスラエルを選ばれた。


だが、イスラエルは人は、望みを世俗的な偉大さに置き、カナンの地に入った時から、神の戒めから離れ、異教徒の風習に従った。


神が預言者たちを通して警告を送られても無駄だった。
異教徒からの圧迫という懲らしめを受けても無駄だった。
改革の度に、深い不信がその後に続いた。


イスラエルはバビロン日屈服し、異教徒の地に離散させられた。
苦悩の内にあって、多くの者が神の契約への忠誠を新たにした。


異教の犠牲制度は、神がお定めになった制度の悪用であった。

異教の儀式を守っている真面目な多くの人々が、神のお定めになった儀式の意味を、ヘブル人から学び、贖い主についての約束をとらえた。


イスラエル人は、バビロンにとらわれの身となったことによって、偶像礼拝が効果的になおった。

その後、何百年もの間、異教の敵の圧迫に苦しんだために、
自分たちの繁栄は神の律法に従うことにかかっていることを確信するようになった。

しかし、民の多くは、愛に促されて服従したのではなかった。
服従の動機は利己的であった。
その奉仕は外面的なものであり、彼らは世の光とならないで、
偶像礼拝の誘惑から逃れるために世から離れた。


神はモーセを通して、イスラエル人が偶像礼拝者と交わることを制限されたが、この教えは間違って解釈された。

それは、イスラエル人が異教徒の習慣に従わないようにするためであったのだが、この教えは、イスラエル人と他国民との間を隔てる壁をつくり上げるために用いられた。


バビロンから帰ってからは、宗教的な教えに十分な注意が払われた。
全国に会堂が建てられ、祭司や律法学者たちが律法を講義した。
また学校も設立され、文学や科学とともに、義の原則が教えられた。
だが、会堂の学校も堕落したものとなっていった。

捕囚の間に、民の多くは異教的な思想と風習とを受け入れていたので、
そうしたものが宗教的行事に取り入れられた。


ユダヤ人は、神から離れるにしたがって、儀式的な行事に教えられている意味を見失った。
その儀式は、キリストご自身によって制定されたものだった。

儀式のどの部分もキリストを象徴していたが、
ユダヤ人はその儀式の意味ではなく、むなしい形式を固守した。

ユダヤ人たちは、いけにえと儀式そのものに頼って
そこに指し示されているキリストに頼らなかった。

彼らは儀式の数が多ければ多いほど、きよい者になれると思い、
その心は高慢と偽善に満たされていた。

どんなに細かく面倒な戒めを作ってもみても、律法を守ることは不可能だった。
神に仕えようと望む者たちや、ラビの戒めを守ろうとする者たちを重荷の下に苦しめるだけだった。

こうしてサタンは民を落胆させて、神のご品性について誤解させ、神の要求は不公平で従うことのできないものであり、その証拠にイスラエルでさえ、律法を守っていないと主張した。


ユダヤ人はメシヤの来臨を望んでいながら、メシヤの使命について正しい観念を持っていなかった。
彼らは罪からの贖いを求めずに、ローマから救われることを望んでいた。
メシヤが征服者としておいでになり、ローマの権力を打ち破り、
イスラエルに王国が回復されることを期待した。

こうして、ユダヤ人たちは、キリストの初臨に伴う屈辱を指し示している聖句を見落として、キリスト再臨の栄光についていわれている聖句をまちがって適用した。

高慢のためにユダヤ人たちの目はくもり、預言を自分たちの利己的な欲望に合わせた解釈をした。