各時代の希望 第一章「神われらと共にいます」 その2

キリストがご自分をモーセにあらわされたときの燃える柴は、神を表した
神をあらわすために選ばれた象徴は、見たところ何の美しさもないつまらない薮だった。
ここに無限の神が宿られた。

あわれみに富まれる神は、モーセが見ても生きられるように、その栄光をごくつまらない象徴の中に覆い隠された。
そのように神は、昼は雲の柱、夜は火の柱の中にあって、イスラエルの民に恵みをお与えになった。


神は有限な人間の弱い目で見ることができるように、キリストは人間の姿になっておいでたのであった。
悲嘆にくれ誘惑されている人間に近づくことができるように、キリストの栄光は覆われ、偉大さと威光は隠された。


神は「彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである」(出エジプト記25:8)とモーセに命じられた。
そして神は聖所の中に、すなわち、ご自分の真ん中にお住みになった。

「言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みとまこととに満ちていた」(ヨハネ1:14)


イエスが私たちと共に住むためにおいでになったことからも、神が私たちの試練をよく知り、また、私たちの悲しみにも同情してくださるお方であるということが分かる。
創造主であるお方が罪びとの友であると悟ることができる。

にもかかわらず、サタンは神の愛の律法を、利己主義の律法であるという。
サタンは私たちが神の戒めに従うことは不可能だと宣言する。
人間の始祖アダムとエバの堕落の結果、生じた災いを創造主の責任とし、神こそが罪と苦難と死の張本人であるかのように私たちに考えさせる。


イエスはその欺瞞を暴露されるのであった。
イエスが人間の性質をとり、私たちと同じ経験をされるのは、人間の一人として服従の模範を示されるためであった。

イエスは我々の会うあらゆる試みに耐えられた。
人間としてイエスは試みに会い、神から与えられた力で勝利された。
イエスの一生は、私たちもまた神の律法に従うことができることを証明している。
イエスは、人の子として服従の模範を我々に示されたのである。
イエスは、服従する力を我々に与えてくださるのだ。


イエスは肉において現れた神であり、
「わたしは良い羊飼いである」
「わたしは生きたパンである」
「わたしは道であり、真理であり、命である」
「わたしは天においても、地においても、いっさいの権能を授けられた。」


「神われらと共にいます」という言葉は、我々が罪から救われることについての保証であり、天の律法に従う力についての保証である。


イエスはしもべのかたちをとり、自ら祭司となり、いけにえとなって、いけにえをささげられた。

「彼はわれわれの咎のために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安をあたえられた」イザヤ53:5

「その打たれた傷によって、われわれは癒されたのだ」イザヤ53:5



サタンの目的は、神と人とを永遠に引き離すことであった。
しかし、キリストは人としての性質をおとりになることによって、決して断ち切られることのない強い絆で、ご自分を人類に結び付けられた。


永遠にわたって、キリストはわれわれとつながっておられる。

「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」ヨハネ3:16
神は堕落した人類に御子をお与えになったのである。


キリストの贖いの働きによって、神の統治の正しいことが証明される。
全能者は愛の神として知られる。
サタンの非難は反駁(はんばく)され、その性質は暴露され、反逆は再び起こることができない。罪は二度とこの宇宙に入ることはできない。

贖いの働きは完成される。