各時代の希望 上巻 第一章「神われらと共にいます」より

キリストがこの世に来られたのは、神の栄光をあらわすためであった。
「われらと共にいます」神となるために、キリストは、罪のために暗くなったこの地上においでになった。
イエスは、神のみことば、聞こえるようにされた神の思想であった。

われわれの小さな世界は、宇宙の教科書である。

この世の初めに、神はすべての創造のみわざのうちにご自分をあらわされた。
天をのべ、地の基をおかれたのはキリストであった。
地を美しさで満たし、空中を歌で満たし、地と空中と空のすべてのものの上に、キリストは天父の愛の言葉をお書きになった。

われわれは、イエスのうちに神を見るのである。
イエスを見るとき、われわれは、与えることがわれらの神の栄光であることがわかる。
すべてのものをキリストは神からお受けになったが、彼は与えるためにお受けになったのである。

キリストを通して、愛の循環が完成され、それは神のご品性である生命の法則の象徴である。

この法則が、実に天において破られたのである。
罪は利己心から起こった。
天使ルシファーが、天の第一位を望んだ。「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上に置き・・・いと高き者のようになろう」(イザヤ14:13,14)と言った。

彼は神について悪宣伝をし、神には威張りたい野心があるのだと言った。
彼は自分の邪悪な特徴を愛の神に押し付け天使たちを欺いた。
そして人類をだました。
サタンは彼らに神のみことばを疑わせ、神の恵みを信じさせないようにした。
サタンは、神は赦すことのない厳しいお方であると彼らに思わせるようにした。

こうしてサタンは神への反逆に加わらせ、わざわいの夜がこの世にやってきた。
神を曲解したために、この地上は暗くなった。

人々を神に呼び戻すためには、サタンの欺瞞的な力をうち破らねばならなかった。
このことは、暴力によってなすことはできないのであった。
暴力の行使は神の統治の原則に反する。

神は愛の奉仕だけを望まれる。
愛を命令することはできない。
暴力や権威によって愛を手に入れることはできない。
愛は愛によってのみ目覚めさせられる。
神を知れば、神を愛するようになる。

われわれを贖う計画は、アダムの堕落後に定められた計画ではなかった。
それは「長き世々にわたって、隠されていた・・・奥義の」あらわれであった。

初めから、神とキリストは、サタンの背信と、この反逆者の欺瞞的な力によって人類が堕落することとを知っておられた。
神は罪が存在するように定められたのではなく、その存在を予見し、その恐るべき危機に応ずる備えをされたのであった。
神は「御子を信じる者がひとりも滅びないで永遠の命を得る」ために、そのひとり子を与えることを約束された。(ヨハネ3:16)


キリストは人の肉体をとってこの世界においでになられた。
もし、キリストが天父と共に持っておられた栄光のままおいでになったら、われわれはその臨在の光に耐えることができなかった。
われわれがその栄光を見て滅びることがないように、キリストの栄光の表れは覆われた。


この大いなる神のみこころは、型と象徴とを通して予表されていた。

                                    続く