Mよ、知っていますか?
私たちの上に起きる様々な困難は、
神様からの警告である場合がよくあるということを。
私たちが訓練され、鍛えられる必要があるからこそ、
そのために、困難を用いようとしておられることを。

しかし、もう一つの主のものではない霊はささやきます。
「この困難は、神様からの訓練だって?試練だって?
そういう場合もあるだろうけれど、Mの場合はちがうね。
ただ、運が悪かっただけ。時代が悪かっただけ。
災難に遭ったようなものさ。Mは全く悪くはないよ。
悔い改めの祈りや、反省の祈りなど、不要だよ。」

Mよ、あなたはどちらのささやきに耳を傾けますか?

さらにこのように祈るようにとささやきます。
「私は悪くはありません。悪いのは時代。悪いのは運。
神様に愛されている私は罪びとなどではない。
だから、神様、この困難だけを取り除いてください。
そうすれば、万事はうまくいくのですから」

いくら頑張っても、いくら努力しても、
救い主、贖い主である真実の神様に頼らずに、
運や偶然、お金や環境、健康や職業や才能などを
頼りにしているとしたら、
そして、それらを願い求める祈りを
日々、おささげしているとしたら、
それは、現代における偶像礼拝に変わりはないのかもしれません。

それを神様はどう思われるでしょうか?
主よ、Mに真実の祈りをお与えください。

今、Mが、祈る言葉をも紡ぐことが出来なくなったことは、
御心から離れた祈りを祈らせようとするサタンの誘惑から、
守られているのかもしれません。
主のみこころに適わない祈りをお捧げすることのないように、
神様が、Mをそっとふところに抱いて守ってくださっているのかもしれません。

自分の言葉で祈ることができなくても、
「私はキリストのものです。私は自分をキリストに捧げました。聖霊を与えてください」
この短い祈りなら、あなたも祈ることができるでしょう。

そして、あなたがすでに暗誦している祈り「主の祈り」を「ヤベツの祈り」をお捧げできますね。
今宵も、主の平安があなたを包んでくださいますように。