ごきげんよう! さわこです

今日は、中学生のふみちゃんのあかしを紹介します。
量販店の駐輪場で、自転車が盗難にあったそうです。
ふみちゃんは、いつも自転車に鍵をかけない主義(笑)
お父さんに何度注意されても、知らんふり。
だって、鍵をかけなくても、盗られたことなんてないのだもの、
めんどくさいわ、鍵なんて。

ところが、ある日、置いた場所に自転車が無い!
ふみちゃんはとっさに祈ったと言います。
「神様、ごめんなさい。
おとうさんにいくら注意されても、その注意を聞きませんでした。
私は間違っていました。ごめんなさい。
神様、自転車がみつかりますように助けてください。
通学に自転車が無いと困るんです。
悪いのは鍵をかけていなかった私です。」


そして、ついに、新しい自転車を買ってもらうことになりましたが、今まで乗っていたような、メーカーの、デザインの、お気に入りの自転車を買ってもらうことはできませんでした。
自転車屋さんで、購入して帰ろうとしたとき、携帯電話が!
「ふみちゃん、自転車がみつかったって、警察から電話があったよ」

自転車屋さんも「よかったね。返品してくれて大丈夫だよ」

新しい自転車に乗ってしまっていたら、返品などできなかったのです。
神様はギリギリのタイミングで、祈りに答えてくださいました。
これからも、お父さんの言いつけは守って、神様を信頼して、祈りを大切にしていこうと思いました。

このあかしを聞いた後、小学上級生の聖書のクラスで分かち合いをしました。
自転車を盗られたと分かった瞬間に、自分の非を認めて、神様にごめんなさいって言えたふみちゃんってすごいね。
うん、うん、そう思う!と子供たち。

じゃあ、こういうふうにお祈りすることってどうかな?
「私は鍵をかけなかったために、自転車を盗られてしまいました。
でも、盗った人は、とても困っていて、お金もなくて、自転車を買えない人だったのかもしれません。
私が鍵をかけていたら、その人はもっともっと困ったのかもしれません。
鍵をかけなかったことで、その人を助けてあげることができたのです。神様、感謝します」

三人の小学6年生たちは、良いお祈りのような気がしてきたのです・・・
なんだか、変な気がするけれど、困っている人を助けることができた。
神様は人の失敗を、誰かを助けるために用いられた。
どんなことにも感謝するってこういうことなのかしら?

彼女たちの戸惑いの表情を見ながら、話しを続けました。

あなたの父と母を敬いなさい、って十戒にありますね。
子供たちは親の教えに従わなくてはいけないって神様はおっしゃっています。
ふみちゃんは、お父さんに従っていなかったことに気づいて、真っ先に神様にごめんなさいを言ったのね。
もちろん人間ですから、お父さんの方が間違えてしまうことだってあるでしょうし、子供の考えの方がベターってこともあるかもしれませんね。
そんなときには、怒ったり泣いたりふてくされたりしないで、心を落ち着けて、自分の考えをお話することも大事なことね。
ふみちゃんは、失敗に気づいた瞬間、神様に従っていなかったことがわかった!
ここは、すばらしいこと。大事なこと。
仮に自転車を盗んだ人が、経済的にも行き詰ってとても困っていたかもしれないけれど、十戒には『盗んではならない』ってありますね。
その人は理由が何であっても、悪い事をしたのです。
自転車に鍵をかけなかったということによって、その人に罪を犯させるきっかけを提供してしまった・・・そういうふうにも考えられませんか?

彼女たちはうなづきました。

皆に気づいてほしかったことは、失敗した時、その失敗によって、益になったかもしれないことを想像して、失敗にも意味があったとか、人助けになったとか、そういうふうに考えて、自分の過ちをうやむやにしてしまうことがあるかもしれないってこと。
それは、自分の非を認めないための言い訳になってしまうこと。

サタンはね、人間のやさしい気持ちに付け入るのよ。
そして、神様から目をそらせて、うやむやにしてしまわせるの。

ふみちゃんは、その誘惑に引きずり込まれなかったのよ。
すごい神様のお守りがありましたね。

主の祈りの中に『われらを試みにあわせず悪より救い出したまえ』ってありますね。
だから、毎日、主の祈りを祈るってことは大事なことよ。

私たちは、神様の守りと、その神様の戒めから巧妙に離れさせようとするサタンの働きがせめぎ合っている、その世界に生きているということを覚えておかなくてはなりませんね。

人間的な感情に土台を置くのではなく、神様の御教えに土台を置くということが大切よ。
神様の戒めから離れた人間の親切や優しさって、サタンにとっては格好の餌になりますよ。

そのためにも、いつもイエス様を見上げて、いつも祈り、み言葉を蓄える日々を過ごしましょうね。


マラナ・タ
ふみちゃんの証し通して、私たちの日常の中での「大争闘」に気づかせてくださった神様、ありがとうございます。