ごきげんよう!さわこです。

前回の続きとなります。
その後、ネットでこの言葉「紅炉一点雪」について調べてみました。
心に留まる解説を四つ見つけました。

①「紅炉一点雪」
この言葉は「死」に対する禅の答えであります。
戦国時代の武田信玄と上杉謙信の戦いは有名です。
川中島を中心に両者は幾たびか戦っていますが、永禄4年(1561年)9月10日の早朝から始まった戦いは圧巻です。
信玄は悠然と床几(しょうぎ)に座して作戦を練ります。
謙信は一挙に雌雄を決せんと朝靄をついて一騎で信玄の本陣を襲います。
突如として陣幕を蹴破って現れた謙信は、信玄めがけて
「如何なるか是れ、剣刃上(けんにんじょう)の事」と切りつけます。
信玄はあわてず、泰然自若として「紅炉上一点雪(こうろじょういってんのゆき)」と答えざま、持っていた鉄扇でハッシと受け止めます。
「如何なるか是れ剣刃上の事」とは「俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ」すなわち「死」をどう受け止めるのかと問いかけているのです。
それに対する信玄の答えは、振り下ろす刃の下でも、生もなく死もない。
すなわち、生への執着もなく、死への微塵の恐怖もない、死ぬもよし、生きるもよし、と無心に鉄扇をもって受け止めたのです。


②お茶のお稽古をしている男性のブログです。
茶室の掛け軸は「紅炉一点雪」
師匠から、掛け軸の説明を聞いた。

「だれでも嫌なことやくじけそうなことがあると思います。
それをいつまでも考えていてもいいことなんておきません。いつまでも嫌なことを引きずって不安そうな顔をしていたら、見た人は不安になるでしょう。
赤々と熱せられた炉に、一点の雪が落ちると、一瞬にして消えてなくなり、跡形も残さないでしょう。
いつまでも、過去を引きずってクヨクヨ生きるのではなく、やってしまったことは仕方ないと、心の切り替えが必要です。そして、また、来る日に新たな気持ちで前進していくのです」

説明を聞き終わったとき、体中が熱くなった。
ここ最近悩むことも多かった。後悔の連発だった。
人それぞれ受け止め方が違うだろうが、
少なからず、前へ一歩ずつ進むことが必要なんだと感じた。
今日は、少しは気分が楽になった気がする。
そして、この一節を知っただけでも価値ある日だったと思う。
これからも、僕は前を見て歩いていくつもりだ。

③この方もお茶をなさっている方。
今日のお稽古での掛け軸です。
赤々と燃える炉に一片の雪が舞い降りても、それは瞬時に跡形もなく消えてしまいます。
「死」をうけいれる様を表した禅語のようです。
川中島の上杉謙信との戦いにおいて武田信玄が放った言葉でもあり、死するも生じるも動じぬ態度で、振り下ろされた太刀を払いのけたと言います。
お茶にあてはめれば、
邪念もかき消し、ただただ無心にお茶を点てることとなるのでしょうか。
はたまた燃える志あらば、小さなことになんら心煩うこともないと解釈できます。

④この方も男性のようです。
その方は、芳賀幸四郎著「禅語の茶掛一行物」からの引用していました。
省略してまとめると
・ 物理的現象にたとえて、真の禅者が湧き起こってくる雑念をスーと正念化してしまう様子を説いたもの。
・ 常人の場合は一念を次々と発展させて、連想を重ねて、雑念妄想のとりこになってしまうが、真の禅者は、その一念をあたかも紅炉一点雪のように、正念の炎で溶かし蒸発させてしまう。
・ しかも大禅者ともなれば、雑念妄想だけでなく、悟りくさい仏見、法見をもきれいに蒸発させて一片の跡形もとどめない。迷いも悟りもともに跡形もとどめない。そうした禅者の正念相続の働きを形容したもの。
・ 連想を重ねることは雑念の始まり、というのは目からうろこ。身の回りで起こる自然現象や物理現象そのも、雑念を持たず、まっすぐに見つめるというのは、感性を磨くポイントでもあるように思います。
・ 「紅炉一点雪」はその様子から命の儚さを説くこともあるようですが、そうした教えも合わせて、とても印象深い禅語のように感じます。

お目にかかったこともない四人の方々。
それぞれが、自分の人生体験を踏まえて、この禅語に心を熱くしておられる。
共感と共に、知らなかったことも教えていただけてうれしくて仕方がない。

茶の湯をたしなむ方々が、お稽古を通して、どれだけ心を清めていただき、立ち上がらせていただいているかと思うと、茶の湯の世界は、なんと平和に貢献していることだろうか。
「平和をつくりだす人は幸いである」と有名な山上の垂訓を思います。

キリスト者である私は、お茶の掛け軸の禅語から、聖書のことばやものの見方について、また今まで学んできたことや体験から納得してきたことと重なって、思いを深めることができる喜びがあります。

その後、いろんな事情から、お稽古を続けることが困難になって辞めざるを得なくなったのですが・・・

毎回、着物を着て家を出る。
版木を打って到着を知らせる。
履いてきた草履を脱いで、茶室に向かうための備え付けの草履に履き替える。

灯籠が足もとを照らしてくれる。
「あなたのみ言葉は私の道の光、わが足の灯火」という御言葉を思う。
世の光としてのキリスト様を思う。

露地を歩いて、蹲で手を洗い、口をすすぐ。
神殿の水盤、祭司は水盤の水で身を清める。
カトリック教会では、その記念であるかのように、礼拝堂の入り口には水を湛えた水盤が置かれているのを見たことがある。

SDA信徒である私は、蹲に湛えられた水から「洗足式」を思うのだ。
イエス様に直々に足を洗って頂いた弟子たち。

SDA教会では、三か月ごとに、洗足・聖餐式にあずかる。
二人一組になって、互いに祈り合い、洗面器に汲んだ水で互いの足を洗い合う。
自覚した、あるいは、自覚することさえなかった過ちを神様に告白するとともに、神様からの愛によって、互いに愛し合う者として頂けますように祈る。
イエス様がひざまずいて弟子たちの足を洗われたように、私たちもひざまずいて、友の足を洗わせていただく。
洗う私の手をイエス様が支えてくださっていることを実感する瞬間だ。

謙遜であること、へりくだるということ、
それを主イエス様ご自身が教えてくださっている。

蹲で手を洗う時、私は毎回、この洗足式に思いを馳せてきた。

そして茶室に入るのです。
襖をあけて、一礼して、床の間のお軸を眺める。
そうして、お軸を近くで拝見。
炉(風炉)と茶釜を拝見。
しゅんしゅんと湧き立つ音。
釜の湯のたぎるこの音を松風といいますよ、と師匠に教わったことを思い出す。


静寂のお茶室。

また、お点前をするときには、帯に袱紗をはさむ。
お道具を清めるためにこの袱紗を用いるのですが、
私はこの袱紗に、弟子たちの足を洗って拭くためにイエス様の用いられた手ぬぐいがかさなってくるのです。

キリスト信仰を持っているからこそ、感じられたこと、理解できたこと、思いを深められたことが、どれほど豊かにあったことだろう。

マラナ・タ
最後になりますが、見知らぬ方々のブログから勝手に一部分を引用、転載した失礼をお許しください。
気に入った部分を記録していたのですが、5年も前のことなので、ますますどこのどなたかわからくくなってしまいました。
ほんとうにごめんなさい。