ごきげんよう! さわこです。
パソコンの整理をしていましたら、 2011年2月22日の記録を見つけました。
以下。

乳がんの告知のあった夜、お茶のお稽古がありました。

そのとき、師匠がそのまた師匠から頂いた扇子に書かれてあった「百禄是荷」という言葉を教えてくださいました。

「ひゃくろくこれをになう・・・と読みます。天からくださるものはすべて黙っていただきましょう。受けて立ちましょう。そういう意味ですよ」
と師匠はおっしゃいました。

「先生、今日の私にとって何よりのはなむけの言葉です。私は今日、がんを告知されました。」師匠はとても驚かれました。

しかし、私は「百禄是荷」の深みに触れた喜びが湧いてきて感無量

人生は禍福あざなえる縄の如し。人生万事塞翁が馬。
わが身の上に起きたことは、そのときには、災いに思えるかもしれない。
しかし、本当のところはわからないのです。もっと長い目で見てみなければ。
わが身に起きることはすべて、天からの贈り物。
神様のくださるものに、なんで文句などつけられましょうか。
喜ばしいことは感謝して。喜ばしく思えないことも感謝して。
四の五の言わずにすべていただきましょう!

「耐えられない試練はない。試練と同時に逃れの道を備えていてくださる」

と聖書も言っています。

私には後ろ盾として神様がおられます。イエス・キリスト様がおられます。
ですから、困難にも禍にも、立ち向かって行ける。受けて立つことができる。
私は弱くても、神様は強いからです。


さて、退院して、二月になってのお稽古日。

お床には「紅炉一点雪」

「赤々と燃える火の上に一片の雪が舞い落ちても瞬く間に消えてしまいます。大きな悟りの前では小さな悟りは儚いもの。小さな善行で自己満足することへの戒めでもあります。消えることのないように、もっともっと善を積むように精進しましょう。」と師匠。

これもまた、退院した私への祝いの言葉でありました。

すべては紅く燃える炉の上に舞い落ちる雪のひとひらのよう。
大いなる神様の前には、所詮、私たちは小さな被造物に過ぎません。

そのことをいつも心得て生きていくことの積み重ねが謙遜な品性を築くことになるのでしょう。
また、そんな小さな儚い存在の私たちのためにイエス様は十字架にかかって下さった。
それほどまでに神は私たちを愛された。それがキリストの教えです。


マラナ・タ
ブログを始めた時、この日記も投稿したいと思っていましたが、
パソコンの中で行方不明になっていました。
見つけ出させてくださった神様に感謝します。