ごきげんよう!さわこです。

ビル・ウイルソン「逆境に働く信仰」より紹介します。(青字)

「しかし、五旬節まではエペソに滞在するつもりです。というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いるからです」コリント第一16:8-9

・ チャンスの扉はいつも開いているわけではない。だから、扉が開いたなら、すぐに通り抜けた方が良い。

・ 扉は開かれても、場合によっては、それがずっと開かれているわけではない。

ソ連が崩壊したことも、香港が中国に返還されたことも、身近なニュースであった。
私には、キリスト教に対してどの程度、開かれているのか詳細な情報を知ることもなかったのだが、ウイルソン氏は以下のように書いている。

① ロシアが福音に対して門戸を開いたとき、人々は聖書を送りはじめ、その扉がいつまでも開かれているものだと信じていた。しかし、今、状況は次第に変わり、ロシアの扉は以前ほどは開かれていない。ロシア正教の指導者たちの中には、扉は閉まりはじめていると感じている人々もいる。

② 香港は今、中国本土の一部に統合された。教会は、香港がずっと開かれたままだと考えていたが、今では、いつまでその扉が開いているのか、誰もはっきりとは分かっていない。


・ 神は「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」ゼカリヤ4:6と言われます。
この聖句は入信後まもないころ、敬愛する大先輩の証の中で、初めて聞いた聖句であった。以来、私の中に定着した御言葉の一つである。

・ 扉は、私たちの力によって開くのでも、私たちの計画や創造性によって力づくで開かれるものでもない。神の霊によって私たちに開かれるチャンスの扉である。

ある信仰の友は、「チャンスの神様には前髪しかない」と言って速やかに受洗を決したが、一緒に聖書を学んでいた彼女の友は、もうちょっと勉強してから・・・と後回しにした。そして、数か月の後、次第に教会から足が遠のき、今では、全く来なくなってしまわれた。

あなたが今いる、まさにその場所において、チャンスは与えられている。

・ 神が扉を開かれる時、あなたは心してそれを通り抜けなければならない。なぜなら、扉はいつまでも開いているとは限らないから。

また、ある人は、まだまだ勉強が足りませんから・・・と言って数十年、求道者のまま。その間、何度か、バプテスマを促されたのだが、それを負担に感じられたのか、礼拝に来られなくなる。しかし、そのうちにまたいらっしゃるようになる。それを繰り返して「今のままで、私十分に幸せなのよ」という雰囲気を漂わせていつもにこにこしていらっしゃる。

・ 神の開かれる扉は、あなたに安易な名声や栄光をもたらしてくれるものではなく、むしろあなたに代価を要求することでしょう。パウロはローマ人に対してもギリシャ人に対しても、知識のある人にも、ない人にも、返さなければならない負債を負っている(ローマ1:14)と言っています。負債とは福音を伝える義務であると。福音を宣べ伝える義務があると。

神によって開かれたチャンスの扉のそばに立つあなたの前に置かれた聖なる義務は、徹底的な献身と犠牲を要求しています。

勿論、献身と犠牲は、強制ではありません。頂いた恵みへの応答として、その動機は恵みによって起こされるものであります。
「ねばならぬ!、かくあるべし!」となってしまうのではなく、選択の自由によって、自主的に喜びを持って献身と犠牲へと導かれて行くのでしょう。

開かれた扉と共に、多くの反対もやってきます。しかし、反対に遭遇する時にこそ、かえって自分の信仰を再評価でき、神の恵みの大きさを発見できるのです。

・ 悪魔はありとあらゆる姿、形をとってやってきます。時には信仰深い人々のふりをして・・・



開かれたチャンスの扉を入ることを躊躇してしまう人がいるのは何故だろう・・・
「わたしの時は、まだなのです」
「わたしの時は、自分で決めます」
「わたしの時を、人にあれこれ言われるのは嫌いなんです」
様々な言い訳がある。

神様の促しを、さまざまな言い訳で拒んでしまう人がいる。
それも神様のご計画のうちなのだろうか?
サタンの巧妙な惑わしなのだろうか?


マラナ・タ

王様の宴会の招待をさまざまな言い訳で断るという人のいることを、イエス様は例え話でお話になりました。