ごきげんよう!さわこです。

今朝、信仰の妹から、祈りのメールが届いた。
10年前、彼女が20年以上の求道生活にピリオドを打ち、バプテスマの決心をするに至ったときに、牧師が彼女にくださった祈りだった。

10年前の、そのことを私は決して忘れることはできない。
その祈りのことも覚えていた。

「イエス様が私たちに提供してくださっています救いを、私が正しくとらえることができるようにしてください。その救いを心から望むよう思いをおこさせてください。
その思いに従って、正しく行動できますよう導いてください。」


彼女は今朝、その祈りを聖霊様が思い起こさせてくださったと言う。
何のために?
それは、バプテスマに対して、躊躇し続けている一人の女性のためであった。
その人のためにこの祈りを持って執り成しの祈りをささげなさい、と主が示してくださったのだった。

私も、共にその方のために、この祈りによって祈りをおささげした。


信仰を正しくとらえることのないままに、気分や感情の流れによって、バプテスマに臨む人もいらっしゃる。
それは、それで、ひとつのきっかけとなるのかもしれないのだから、否定はしない。

バプテスマは、スタートラインだから、そこから正しい信仰に導かれ育っていけばよいのである。
問題なのは、いつまでも感情で信仰を捉え、感傷的な情緒的な信仰にしがみついたままになることだ。

難しく考えなくていいのよ。
イエス様、大好き!それだけでいいのよ。
家族の中あなただけ天国に入れないのは嫌でしょう?

そういう説得にすんなり従える人もいれば、この説得にかえって抵抗してしまう人もいる。
ある人は、こうしたお勧めにこじれてしまって、決心が10年20年と延びてしまった。

自分がその説得に納得したからと言って、誰もがそうであるとは限らない。
決心を促し、決意させるのは、聖霊のなさることだ。

私たち不完全なものは、無意識のうちに、神を操作し、人の心を操作しようとしてしまう祈りをしてしまうこともあるのだろう。

サタンは、先ず、キリスト者に狙いを定める。
キリスト様に近づけば近づくほど、神様の守りの中にいるのだが、そういう信仰者へのサタンの憎しみも増幅するのだ。

眠ることなく、祈り続けること、
イエス様のふところで、憩い続けること、
ぶどうの木であるイエス様につながり続けること、
そうしたイエス様という岩の上に信仰の家を建てさせていただかなくてはならない。

私たち先に召された者が捧げる執り成しの祈りを、自分の願望や自分の感情の上に置くのではなく、御言葉に根差した祈りとさせていただかなくては。

風は思いのままに吹く。   ヨハネ3:8 新共同訳
風はおのが好むところに吹く。ヨハネ3:8 文語訳

私たちの祈りが、聖霊様の好まれるものでありますように。
私たちは、正しく祈ることもできないものですから、
私たちの不完全な祈りを、神様の恵みによって、イエス様を信じる信仰によって、正しい祈りへと引き上げてくださいますように。
聖霊様の好まれるものとなりますように。

真剣に悩み迷う求道者の人々の魂が、救われますように。
その人々の迷いを、神様が祝福し、清めてくださり、
イエス様の上に立つ正しい信仰へと引き上げてくださいますように。
バプテスマの決意を、一日も早くできますように。
ご再臨は近いのです。
若くても健康でも、地上人生の朝は保証されていないのですから。


マラナ・タ

イエス様が私たちに提供してくださっています救いを、
私が正しくとらえることができるようにしてください。
その救いを心から望むよう思いをおこさせてください。
その思いに従って、正しく行動できますよう導いてください。