ごきげんよう! さわこです。

稲田牧師の「旅人の視点」を読むように勧めてくれたのは、信仰の親友。
信仰について多くの分かち合いをし、共に祈り合い、信仰書を貸し借りする彼女が、
「さわこさんが、『日本人はなぜ申し訳ないと思うか』という本を貸してくれた時、ベネディクトの『菊と刀』について話し合ったよね、『菊と刀』についての文章もあるから、きっとこの本はあなたに響くわよ。牧師夫人にはさわこさんにまた貸しすることを了解してもらっているからね」

「菊と刀」については「罪と恥」というタイトルで書かれていました。
稲田牧師の文章を一部紹介します。

「日本人の精神構造の一面を、恥の文化と特徴づけたのはルース・ベネディクトの『菊と刀』でした。
欧米において広く見られるのが罪の文化であることを前提にしたうえで、彼女は恥の文化を論じました。
・・・罪の意識は・・・絶対者の存在を前提としており・・・欧米人の良心は自立的であり、絶対的な基準として作用している。
それにひきかえ、日本人の倫理現象は相対的で、他者に依存している。
日本人にとって他人が行動の基準となり、自身の良心を基準とする欧米の文化とは違う。
言外に日本の恥の文化は遅れた文化であると言っているようにも思えます。」


そして、「罪がわからないからキリスト教も理解されないで終わってしまう」とか「日本人は神の赦しがわからないから、罪が分からない」と、日本でキリスト教が伸び悩む原因をそこに関連づける意見を聞いたこともあります。
私はその見解に一種のマニュアル的なものを感じたのでした。
つまり、誰か偉い人の受け売りみたいな(笑)

稲田牧師はこう書いています。
「このような見解に異を唱えたのが、キリスト者の精神科医である土居健朗でした。
彼は、欧米にも、罪の感情よりも恥の感情が先に立つと聖書が記述していることを認めるボンヘッファーのような神学者がいることを指摘したのです。
そして恥の感情を、人類の始祖が神から離れた時に感じた、自分はどこにも属していない、宇宙にただ一人投げ出されているという絶望的な孤独感だと論じました。
罪の感情はその後に続くものであり、神の恩恵に目を開かれた者が意識しはじめるものだというのです。
そうだとしたら、日本人には神の赦しがわからないとか、必要ないと嘆く必要はありません。・・・」


私はボンヘッファーについても関心を持っています。
土居健朗氏の見解に私は溜飲の下がる思いでした。
まことに、まことに、アーメン!と叫びたくなりました。

私はベネディクトの「菊と刀」の思想を学生時代に聞かされてきました。
日本の高等教育を担っている教師たちが、だから日本人は国際人になり得ないのだと、劣っているかのように教えたのです。
判断力、見極める力の不足している若い人たちはその教えを鵜呑みにしてしまったのではないでしょうか。
団塊の世代の少し後で生まれ育った私は、戦後の偏向?教育の波をまともにかぶりました。
そこに問題があると気づくようになったのは、聖書通読を始めて数年経過した頃でした。


聖書全体をきちんと繰り返し通読していくことで、私の頭の中がニュートラルになっていったのです。
若い時代に教えられてきたこと、新聞やマスメディアの言うことは常に正しいと、信じて疑わなかったことに、あれ、おかしいんじゃない?変じゃない?一方的な一面的なものの見方じゃないの?という風が吹き込んできたのです。

「真理は自由を得させる」(ヨハネ8:32)
「真理の御霊が来るときには、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」(ヨハネ16:13)
信仰を持ったばかりの頃に覚えた御言葉が思い起こされました。

読書の楽しみの一つに、私が関心を持っている人の名前や本の名前が出てくることがあると著者と共感するよろこびがあります。


マラナ・タ
本の中で紹介された本を読み、またあらたな本の世界が広がっていったりもします。