ごきげんよう! さわこです。

腰痛の真っ最中に、読み終えた本の一冊。
稲田豊著「旅人の視点」福音社発行の新刊書です。
読み終えて、思わず、感想文をつけて(笑)貸してくださった牧師夫人にお返ししました。

現役牧師の信仰エッセー集のようなものですが、何か所も心に届いた記事がありました。
その中に、「埋めようのない穴」というタイトルで、哲学者森有正氏のことが書かれていました。

2012年に森氏の「いかに生きるか」「生きること考えること」(どちらも講談社現代新書)を読んでおり、二度三度と読み返し、線を引き、賛否両論の感想を書きこんである本です。

森有正氏のファンだとか、書物が好きだとかいうわけではないのですが、何か所か私のアンテナに触れるところがあったのです。
彼はキリスト信者であり哲学者であります。
戦後まもなく、フランスに行かれパリの大学で教鞭をとっておられた方。

日本人クリスチャンである私は、森氏の文章には、思考の展開を触発されるところがありました。

稲田豊牧師も、森有正氏に触発されたのだと思うとなんだか仲間意識のようなものを感じてうれしくなったのです。

この本を読んで知ったのですが、森氏は「西洋にかぶれ、日本の美と伝統に背を向け、さ迷い出て帰る道を失った惨めヤツ」という評価もあるらしいのですね。
「キリスト信者でありながら、家庭もうまくいかず、一時期荒れた生活をしていたと批判する」人もいることも初めて知りました。

稲田牧師は、こう書いています。
「しかし私は、声高に批判するこれらの人たちよりも、森が一切の言い訳をするわけでもなく、ただそっと書き残した文章に惹かれるものがあります」と、森氏の文章を引用しています。

私もこの引用文にとても共感をしたのです。
信仰者の神髄を見たようにも思えたのです。
私が二冊の森氏の本から共感を覚えたと事については、また後で書くことにしますが、ひとまず、森氏の文章を紹介します。

「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅をもっています。
醜い考えがありますし、恥がありますし、他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあります。
そういう場所で、アブラハムは神様にお目にかかっているし、そこでしか、人間には神様にお目にかかる場所はないのではないでしょうか。
人は誰はばからず語ることのできる観念や思想や道徳といったところでは、真に神に会うことができないのです。
人にも言えず、親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人は神に会うことはできないのです」

まことにアーメン!と共感しました。

クリスチャン特有の道徳者ヅラ、正義感ヅラに、一歩も二歩も引いてしまうことがあります。
理想を掲げて、建前と理想だけが独り歩きしていて、その唇からは立派な「信仰用語ばかり」が語られるとき、違和感を持ってしまうことがあります。
あるいは、自分の醜さに過剰反応しすぎて、救われたのちも罪びと意識が強く残り、それを強調することが謙遜であるかのように思い違いをしているかのように感じることもあります。

このような部分は私も含めてクリスチャンの中にあるのではないでしょうか。

アブラハムは信仰の父として、理想的な印象がありますが、聖書を読んでいくに従って、嘘をついたりなど人間的な欠点部分も見えてきました。

森氏の見方によれば、アブラハムのそうした失敗や弱さ醜さの部分があればこそ、神様との関係が深まっていったのではなかったのか、と思えたのでした。

私たちクリスチャンの信じる、創造主であり贖い主である聖書の神様は、どのようなお方であり、どのように私たちに寄り添ってくださるお方なのかが、ますます見えてきたのでした。

稲田牧師は、最後にこう書いています。
「私たちもそうではないでしょうか。心の中に埋めようのない穴がある。そこでしか神に会えない。ですから、この聖書が証する神を見出す人たちは、どんな時代にも絶えることはないのです。」

森有正氏の本からの感想は、本居宣長の「もののあはれ」とからめてかなり前にブログに書いたように思いますので、探してみます。

マラナ・タ
少し体を動かすだけでも激痛が走った一週間。
私にとっての鎮痛剤は目覚めている時は読書。
ベッドに横になっている時にはCDでE・Gホワイトの「祝福の山」の朗読を聞き続けることでした。
今朝からは、今までの激痛から嘘のように解放されています。