ごきげんよう!さわこです。

今朝は今年初めての朝祷会。
昨年最後の朝祷会は、椅子から落ち腰を打ってしまって、自転車に乗れなくなっていたので欠席。

今朝の、メッセンジャーはK牧師
ガリラヤの風 かおる丘で・・・を讃美して始まった。

ペトロ第一4:13-21を解き明かしてくださった。
青字は牧師の説きあかし、黒字はそれを聞きながら、私が思ったこと。

ペトロの手紙は小アジア(今のトルコにあたる)の信徒に送った手紙である。
その手紙の目的は、迫害下にある少数の信徒に送った手紙であり、苦難の中に意味があることを示すことで、信徒たちを励ましそうと意図している。

分解して解き明かしてくださった。

13節 「もし善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」
善いこと=イエス・キリストを信じる信仰の道
誰が害を加えるでしょう=神が支えてくださる

14節 「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。」
義のために生きる=神と共に歩む
実際には様々な苦難がある。ペトロ自身も苦難の中にいる中で、「苦難を受けることは幸い」と言っている。

「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」
苦難の内にいる時には、心を乱したり恐れたりするものだ。
それは当然のことだが、その中で何を見て歩むか、義のために生きるという神と共に歩む道である。
恐れ心を乱す時に、主イエスのもとに立つなら、私たちは支えを頂き、力が湧いてくる。


15節 「・・・あなた方の抱いている希望・・・」
抱いている希望=キリスト信仰
この時代の小アジアは、キリスト者はきわめて少数であった。

「説明を要求する人には・・・」
好意的な説明ではない、悪意を持った説明を要求してくる。
そういう悪意の人々に、弁明することが与えられている。そのために備えなさい。どんなふうに?

16節「・・・穏やかに、敬意を持って、正しい良心で・・・」
議論をしたり、論破するのではない、対決の道ではない。
キリスト教国でない日本ならでは、このペトロのおススメが味わえるのだ。

15節後半「・・・いつでも弁明できるように備えていなさい」とは、どういう意味か?聖書学者のように聖書を説明できるようになれ、という意味ではない。
弁明する=神に愛されていることを確認すること。キリストの愛の中に生き続ける自分を表すこと。神が愛であり、私たちは愛されている存在であることを、各自信仰者が言葉と行動と雰囲気とで証明すること。
そのように生きることが大前提であるが、そのためには、み言葉を蓄えること、常に聖書に親しむこと、礼拝を大切にし、出席すること。

神と日常的に深く関わることで、神に愛されていることや神を愛していることが自分の中で実を結ぶ。そして神に用いられる器となって行く。「説明を要求する人に弁明する」備えができると、神はその機会を与えてくださり、求める魂に引き合わせてくださる。

17章「・・・善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」
善を行う=キリストを信じて生きる 
悪を行う=神を信じないで生きる、不信心の道

18章前半「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです・・・」
ペトロは、ここで苦しみの意味を知るためにキリストへと思いをたどる。
苦しみの本当の意味は?
私たちが神のもとに戻るためには、キリストの苦しみが必要であった。
今の教会の交わりも、キリストの苦しみの上にできた。


18章後半「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」
19章「そして霊においてキリストは、捕われていた霊たちのところへ行って宣教されました」
20章「この霊たちは、ノアの時代に箱船が作られて、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」
肉とは?霊とは?
肉=体ではない。  霊=魂ではない。
肉とは・・・人間を見ている私たち
霊とは・・・神を見ている私たち

肉とは、人間の考え、人間の思い、人間に属するものすべて。
霊とは、神に属するもの。

霊と言うと、肉体から離れて単独で存在する霊魂として、多くの日本人は理解するだろうが、聖書で言う「霊」とは、神に属するものの総称と考えられる。
つまり、ここは「霊肉二元論」や「霊魂不滅論」を言っているのではないと私は理解した。

この箇所は「よみにくだり・・・」という使徒信条のもとになっているところであるとの説明を聞いたのだが、私にとっても非常に難解な箇所だ。
キリストなる神を知る機会がないままに、死んでよみにくだった人は救われるか、救われないか?それに対する答えを聖書は明確には書いていないが、人間としての肉体は死に渡されたので、神である霊となったキリストが、死んでいる人たちのもとに行ったということから、死んだ人のことについては、キリストの働きにゆだねてしまうことができるということだ。
聖書にはっきりと書かれていないことを憶測し、想像物語を創作しないで、すでに死んだ人たちは“どういう思いで、どういう生き方をしてきたのか” “キリストを知っていたならば、どうしたであろうか”それは神のみぞ知る領域なのだから、神にお任せすればよいのだ。

メッセンジャーの牧師は「キリストを知らないままに死んだ人はどうなるのか?それに対する答えは持っていないが、その手掛かりはある。キリストはノアの箱舟の時に滅ぼされた人の所に行った。死んだ人については、キリストの働きにゆだねることができる」と言われた。

20節後半から21節は「洗礼」について書かれている。
「この箱船に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」

洗礼とは何か?正しい良心が与えられることである。
正しい良心とは何か?神とつながる心である。
神とつながる心とは何か?
神を知り、イエスを知ることである。
神を知って生きることに、洗礼の意味がある。そこに洗礼による恵みがある。


一度洗礼を受けさえすれば、どのように生きようとも、天国行きの切符を手にできたというものではない。
キリストなる神につながり続けていなければ、洗礼も思い出の儀式の一コマに過ぎない者となる。

マラナ・タ
19節から21節は、かなり難解なところだ。
聖書全体から、また、あちこちに出てくる聖句から、文脈から読み込まなければ、ここの箇所だけを単独に読むと、とんでもない誤解をした読み方となってしまう恐れがあると思った。

聖書は日本語に翻訳され、訳する時に「仏教・神道」から用語を借用している。
ヘブライ語・ギリシャ語から、より近いと判断された日本語を用いているから、誤解も生じてくる。
また、[罪、説教、教会、悔い改め]などと訳された言葉も、人によって先入観がそれぞれでもある。
聖書を学ぶことは、そのような混乱混雑した中からの宝探しのようなものだ。