ごきげんよう! さわこです

今年は思い切って、年賀状書きを断捨離しました。
毎年、11月に入ると、夫婦で新年のご挨拶に続いて、夫婦二人の近況をユーモアを交えた文章で短く綴るのが恒例です。
その文面を練るのも楽しいことの一つなのですが、300枚もの年賀状の宛名書きが私にかかってきます。
はがき代+印刷代(昔からの知人の印刷屋さんに頼みますが)結構な出費。
時間と体力と財力と比較すると・・・

なんということ!
夫に、宣言してしまいました。
「今年、年賀状は、休みます!」
夫はびっくりぽん!

経済的理由は面と向かっては言えないし、
宛名書きは毎年わたし一人!と不平不満も言いたくないし・・・

そこで、毎年の年賀状を出してきて住所録代わりにしているのですが、
「そのはがきをどこに片づけたか、思い出せない、見つからないの」
と物忘れが増えたせいにしてしまいました!(笑)

「どうしても出さないといけないところはどうするのだ?」と夫。
「メールにしましょ。メルアドを知らない方にだけ、いただいてから書きましょ。年賀状はコンビニでプリントしたのを買ってきますから」
この答えに夫も納得。

そんなわけで、年賀状を書くと言う煩雑さとプレッシャーから解放されました!
さて、この提案の行方は(笑)・・・
来年は従来通りにしましょう、となるのか、年賀状断捨離作戦成功、となるのか。

夫は数日前から、屋上やベランダの手すりのペンキ塗りに励んでいます。
私は、先ず外回りから始めて、浴室、トイレ、台所、ガラス拭きとカーテンの洗濯、愛犬おじゃる姫さんの周辺。
何とおじゃる姫さんは、大病以来、リビングルームの赤いソファが居場所になってしまっているのです。ごろんと昼寝も出来なくなりました。

今日は、やり残したリビングと、他の部屋を。
大晦日には、お料理つくりに専念。

皆さんの年末は、いかがですか?
お忙しくお過ごしでしょうか?


さて、ブラザー・ローレンスに関する記事を読んでくださって方がいらっしゃいました。
昨年の9月の記事ですから、よくぞ、見つけてくださったとびっくりぽん!感謝です。

今朝は、その内容に私自身が励まされましたので、一部を紹介しますね。

ブラザー・ローレンス  2014年9月9日の日記より

私は17年くらい前に、読書を「聖別」しました。
それ以来、書物に関して、神様の霊が注がれるようになりました。
キリスト教書店に行って本を眺めていると、「ここよ、ここよ、わたしを読んで」と
本の方から呼ぶのです。
聖霊の神様が、私の霊性に必要とする本を与えてくださるのだと思います。
アンドリュー・マーレーの「謙遜」とともに、ブラザー・ローレンスの「敬虔な生涯」もそうでした。

私はこの本によって霊の目が開かれました。
ローレンスは台所でオムレツを焼いた後、床に仰向けになって寝転んで神をたたえるのです。
神をたたえるとはこういうことだ!とわかりました。

主婦にとって、台所は「聖域」です。

私が最初にイエス様に出会ったのもダイニングテーブルでした。
私は台所仕事をしながら、いつもイエス様に語り掛けます。

「ねえねえ、イエス様、聞いてくださいよ・・・実は・・・」

そうして、台所で、私は何度となくイエス様の語り掛けを聞きました。
美しい幻を見せていただいたこともあります。
そうして、病んでいた私の霊性が癒され、立ち上がらせていただいたことは数知れず。

平凡な仕事の中に神の愛をみいだすこと。

平凡な仕事であっても、取り組む心の大切さ。

小さなことでも神のために働き、讃美することが礼拝。

どんなことであっても神のためにするなら意味が生まれる。

神に自分を明け渡すとは、いつも神のことを考えること、それを実践すること、それによって人の魂は神のもと(ふるさと)にたどり着くのです。
いつも親しく神に語り掛けることが大切です。それが祈りです。

神を礼拝し、神を愛することが私たちの仕事のすべてです。

日常の営みの中で、絶えず神に思いを向けましょう。

ブラザー・ローレンスはマザーNに宛ててこのように書いています。



「私は、あなたがその悩みや苦しみから救い出されるようにとは願いません。
ただ、神が良いと思われるまでの間、忍耐を与え、強めてくださるように切に神に祈らせていただきます。
十字架にしっかりと結び付けてくださる主によって、あなたが慰められるように願います。
神が最も良いとされる時に、あなたをその所から解放してくださるのです。
主のために苦しむ者は幸いです。
そのように、あなたも苦しみや悩みに慣れるようにしてください。
主が許されるすべての苦しみに耐える力を求めて、
あなたにとって十分だと思われる主の時まで祈り求めてください。」
(77ページ第11の書簡より)


マラナ・タ
主を待ち望みます。
ご再臨のその時まで、主と共にいることが、一番の備えであることを忘れないように。
大きなこと、偉大なこと、目立つこと、それらをなすことが備えではありません。
人によっては、そのような使命を頂く場合もありましょう。
与えられた使命は日常のオムレツを焼くことにも、破れた靴下を繕うことの中にもあります。
すべてのことを、神様の愛にお答えするためとして行うことができますように。