ごきげんよう! さわこです。

ようやく、最終章にたどり着きました。
15回にわたっての要約あり、まとめあり、感想文あり、脱線しての証あり・・・の記事にお付き合いくださいましてありがとうございました。

私は、SDAキリスト教会においてイエス様に出会って以来「なぜ、日曜礼拝でなくて安息日礼拝なのか」と「三位一体の神様の中で聖霊なる神様をわかりたい」この二つが個人的なテーマになり今に至っています。


私がそこまでこだわる理由は何でしょうか?
多分、神様からの祝福ではないかと思うのです。

また、数ある教会の中で、何故、SDAに導かれたのか?
幼稚園はカトリックでした。
嫁ぎ先は日本基督教団の信者でした。
とは、言っても曽祖父母の信仰は、祖母、父、そこで途切れてしまっていました。
祖父も母も、その息子たちも誰一人としてキリスト信仰を持ちませんでした。

そこへ、突然、日曜礼拝ではなく安息日礼拝を守るSDA教会の信徒に私がなりました。
私にとって、曽祖父母の教会はSDAよりも馴染みがあったはずです。
それなのに何故でしょうか?

このことも神様の祝福であったのではないだろうかと思うのです。
夫の一族に信仰が継承されていて熱心なキリスト者が沢山いたら、私はSDA教会には導かれていなかったでしょう。
嫁ぎ先の宗教だから・・・と素直に日本基督教団の信者になったかもしれません。

神様の選びは不思議です。
神様のご計画も不思議です。
神様は目的もなく、私をSDAに導くことはなさらないと信じています。

ですから、聖書を丸ごと忠実に学ぼうとする姿勢のSDAの聖書研究に励むことが、神様の選びにお応えすることの一つである思ってしまいました。
しかも、聖書を忠実に学ぶことは私の問題を整理し理解する上で大切なこととなりました。

「あなたの友 聖霊」を読み返して、15回のシリーズで書き続けたのは、こうした背景が関係しているのだと思います。

私は異言の賜物も、預言者としての賜物も頂いてはいませんが、個人的に御言葉に親しみ、聖書通読やデボーションに励み、それを記録する賜物を頂いているのかもしれません。

それはパウロが言うように「全体の益となるため」です。
主の体の一つとなるためです。
共に苦しみ、共に喜び、互いに配慮しあう部分の一つとして・・・なのです。


以下は、三度目を読み返して・・・

この終末の時代に生かされて、試練の多い「あなた」へのメッセージです。
「あなた」は「わたし」のことでもあります。


もし、あなたがすべてに行き詰まり、四面楚歌の状態にあるならば、
仕事においても、人間関係においても、
誠実、善意、熱心、努力の一切が報われることのないままに長い歳月を過ごしてきて、
今、残されたものが「絶望」のみであったとしても、あなたにはイエス様がおられます。

最良の友・聖霊が指し示すイエス・キリストを見上げて、
日夜、イエスの御名によって神に助けを求め続ける選択が与えられています。

この世界で、順調に気持ちよく過ごして来ることのできた人々が
得ることのできなかった激しい渇きを体験しているのです。

すがる相手は、頼れる相手は「十字架につかれたこの方しかいない!」
このことに気づかせようと絶えず働いておられる友「聖霊」がいます。


マラナ・タ

死の陰の谷を歩む時にも
わざわいをおそれじ
汝 我と共に いませばなり