ごきげんよう! さわこです。

パウロは異言の賜物を聖霊の賜物の中にいれています。
コリント第一12:7-10
「各自が御霊の現れを賜っているのは全体の益になるためである。
すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、他の人には一つの御霊によって癒しの賜物。また他の人には力あるわざ、また他の人には預言、また他の人には霊を見分ける力、また他の人には種々の異言、また他に人には異言を説く力が与えられている」


さて、私の属する教団、教会には異言の賜物を持っている人がいるかどうかは知りません。
それを敢えて話題にする人はいないからです。

しかし、教派の異なる友人知人には異言を語れる人が数人います。
彼女たちは、ご自分が異言を語れることを秘めてはおられません。
御霊にある個人的な平安を喜んでお話になります。
私は異言の賜物は頂いていませんから、不思議な感じがします。

私がはじめて異言らしきものを聞いたのは、10年近く前、超教派の祈り会でした。
隣に座っていらした女性が突然、大きな声で訳の分からない言葉で祈りはじめたのです。
皆が小さな声でそれぞれの祈りをしている時でしたから、私は、びっくりぽん。
その大きな声で、私は祈れなくなりました。
私は祈りの言葉を紡ぐことをやめて沈黙の祈りに切り替えました。

終わってから、隣の女性に「あの~、異言でしょうか?」
「はい、そうです!」「あなたの教会は異言で祈る方がほかにもいらっしゃるの?」
「ええ、みなさん、異言で祈られますよ!」またもや、びっくりぽん。

私はコリント第一14章を思いました。
「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するために賜物を熱心に求めなさい。
異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。
それは誰にもわかりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。
しかし、預言する人は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。
異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。
あなたがたが皆異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。
異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言の方がまさっています。・・・・

あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうしてわかってもらえましょう。・・・異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい。

わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません・・・しかし、わたしは他の人たちを教えるために教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。」1―19節

「このように、異言は、信じる者のためではなく、信じていない者のためのしるしですが、預言は、信じていないための者ではなく、信じる者のためのしるしです。
教会全体が一緒に集まり、皆が異言で語っているところへ、教会に来て間もない人か信者でない人が入ってきたら、あなたがたのことを気が変だとは言わないでしょうか・・・」22―25節

彼女の大声での異言の祈りには、パウロの言うところの「異言を語る場合」の取り扱い説明に従っていないと思いました。
このような形で異言に出会ったのはとても残念だったと思います。

また、異言にはその人の霊が祈る言葉だけでなく、明らかに外国語という場合があります。

ベンデン先生は
「さて、今日、すべての教派を超えて、各教会に広がっているネオ・ペンテコステ運動の共通の考えは、異言を語ることが聖霊のバプテスマを受けた証拠であるというのです。異言を語るのは個人礼拝のためと考えられています。部屋に入ってある力に支配されて、自分でもわからない言葉で語ります。それは神を賛美しているというのです」

聖書には「異言=聖霊のバプテスマ」という記述はありませんから、異言を語れることを「聖霊のバプテスマ」だという考えはネオ・ペンテコステ運動から来たものであったいうことがわかりました。


マラナ・タ
私には異言を語る賜物は与えられていませんが、「識別力と知恵と謙遜」を賜りたいと願って祈っています。