ごきげんよう! さわこです

第9章は、終末の時代に生きる私たちにとって、特に身近な内容だと思いました。

EGホワイトの「各時代の大争闘」27章と36章からの引用もありましたので、その箇所を今読み返しています。

線を引いていて、何度か読んだ痕跡がありますが、初めて読んだ20数年前よりも、読み返すたびに緊迫感が伝わってきます。

青字はベンデン先生の本からの引用。黒字は私の感想です。

マタイによる福音書24章23,24節
「『見よ、ここにキリストがいる』また『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。偽キリストたちや偽預言者たちが起こって、大いなるしるしと奇跡を行い、できれば選民をも惑わすであろう。」

イエス様の注意を喚起するお言葉です。

・ 終末の時代、サタンはもしできれば選ばれた者をも欺こうとして、ものすごい努力をしているのだから警戒しなさい。

・ サタンは再臨前の終末の時代の人々に対して一つの偽りを用意しようとしている。

・ その偽りは、非常に賢く行われ、敵は神の民の注意を、しるしや不思議で捉えようとする。人は、何か目立つ驚くようなことに心を動かされやすいから。

・ ハリウッド映画、サーカス、カーニバルなどは、目立つことに心を惹かれる人間の心の構造を利用してきた。

・ 敵はこうした特性を利用して、選ばれた者を欺こうとする。

エデンの園でエバがいとも簡単に騙されたことを思いました。
また、聖書にも目立つことによって心を動かされた人々たちが登場します。

・ 伝道旅行から帰ってきた弟子たちが「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までが私たちに服従します」と報告した時イエス様は「むしろ、あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい」と、弟子たちの目を表面的な目立つ出来事から、本当の奇跡へとお向けになった。

・ 使徒言行録8章に登場する魔術師シモンは悔い改めたように見えたが、心の変化は一時的に過ぎなかった。

・ 私たちも、エリヤと共に、いろいろな意味で、神様を風の中や火の中に期待し、そして静かな細い声を聞き漏らす。人間はその傾向が強い。

・ 黙示録16:4に、悪魔の霊が奇跡を行うと書いてある。

・ 奇蹟や不思議は神の力の証拠だと安易に信じるのは危険であるが、超自然的なあらわれは、みな、悪魔から来ると考えるのも誤りである。

・ キリスト再臨の前には、聖霊の力によって人目をひく出来事が起こることも覚えておくように。聖霊の注ぎの約束があるからである。

・ 人目をひくようなことがみな真理ではない。

・ 目立つか、目立たないかで、神からか悪魔からを識別することは不可能である。


もし、ある集会で以下のようなことを見せられたら、
① 感覚的には否定できない存在の力をこの目で見たなら・・・

② 奇蹟を目の当たりにし、理性では説明できないことを見たり体験したなら・・・

③ 聖書とイエスを強調しているならば・・・

④ 愛を強調しているならば・・・

⑤ すぐれた宗教組織や霊的真理のより深い洞察が提示されたら・・・

⑥ そして、最後に生活が変化した人々を見せられたら・・・

あなたは、この集会が神から来たものであると判断するでしょうか?
その霊が聖霊であると信じるでしょうか?
真理でしょうか?欺瞞でしょうか?
真理か欺瞞か、その判断基準は何に置きますか?


・ 百聞は一見に如かずと言って、自分の目で見たことを信じるでしょうか?

・ 大きな喜びや平安を感じたからと、自分の感性や感情、五感を信じるでしょうか?

・イエス様の名前が出てきたからとか、聖書の一部分の言葉が引用されていたから本物だと信じるでしょうか?

・ 人類愛や家族愛、弱者への配慮、平和が語られていたから信じるでしょうか?

・ 社会貢献、社会奉仕、自己犠牲、そうした人々がクリスチャンであったことの故に信じるでしょうか?

・ 理性に訴える、また、うっとりするような光景をもって空想力をかき立てる、愛や慈悲を雄弁に語り愛情を呼び起こす、こうした語り口に信用を持つでしょうか?


EGホワイトは「預言の霊」第4巻411頁
「サタンは、私たちの前で驚くべき業を行います。偽物は本当のものと非常によく似ているので、聖書によらなければ、区別することはできません。聖書の証しによって、すべての奇蹟をテストしなければなりません。」


判断基準は聖書です。
聖書の解説書やそれぞれの教団の神学、それが聖書に忠実であるならばよいのですが、聖書に書かれていないことや、曲解した記述であったならば、どうでしょうか?

例話に過ぎないものを真理と決定してもよいのでしょうか?

聖書の一部分から真理を見出すことはできるのでしょうか?

聖書全体から真理を導き出さなくては、つじつまがあわないはずです。
辻褄をあわせるための神学が人の手によって造りだされるならばどうでしょうか?

「これぞ、真理!」と信頼している信仰が偽りの信仰、混ぜ物の混合宗教であったならばどうでしょうか?

マラナ・タ
「各時代の大争闘」からの引用文を続きに書こうと思います。