ごきげんよう!さわこです。

第6章はヤコブの物語からはじまっています。
著者は「ヤコブは・・・優れた戦術家でした・・・20年間、機知を働かせて叔父ラバンに勝利しました。今や、父に会うために帰途にあったのです。しかし、途中で兄エサウの国を通らなければなりませんでした。ヤコブが家督権を奪いとった時以来、エサウは怒っていると思われました・・・」

というところで、ヤコブとエサウの物語を振り返ってみることにします。
長子の権とは? 祝福とは?
と疑問に思って、以前にもブログに書いたことがあります。
そうすることで、分からなかったことが整理されて納得していきます。
今回も、その繰り返しになってしまいますが・・・

ヤコブは兄エサウから、長子の権利(家督権)と祝福を奪いとり、叔父ラバンのもとに逃亡したのでした。
イサクの妻リベカは、双子を身ごもった時「兄が弟に仕えるようになる」と主から言われていたので、主の約束を待っていればよかったのです。
しかし、イサクは老齢になり、しかもエサウをヤコブよりも愛していましたから、このままでは、主の約束が違えられることになると焦って、リベカはヤコブをエサウと偽って祝福を奪いとらせたのでした。

ヤコブがレンズ豆のスープと引き換えに兄エサウから奪いとったのは「長子の権」
長子の権、家督権とは、一族のリーダーとして一族を守り、その財産を継承する責任を負った権利である、と私は理解しています。
長子は次男以下の兄弟の処遇を配慮する責任もあるのです。
長子一家がその継承した財産を自分の一家だけのために用いるならば、長子の権利の乱用となるかもしれません。
ヤコブはそれも承知した上で、長子の権を熱望したのでしょうか?

次に、ヤコブは兄が受けるはずの祝福も計略によってだまし取りました。
「祝福」とは何でしょう?
「長子の権」が一つしかないのはわかりますが、「祝福」は何故、一つなのでしょう?

「祝福」とは、真実の神様の福音を言うのだと思います。
長子の権も、祝福も、「福音を伝える使命」だと思います。
アブラハム―イサク―ヤコブがその使命を担うために選ばれたのです。
イエス様につながる系図はひとつでありますから、祝福をエサウに与えることはできないのですと私は思いました。

神様は「兄が弟に仕えるようになるであろう」と言われたのですから、家督権も祝福も弟が受けることが神の計画であったことが分かります。

イサクはエサウがお気に入りでした。
リベカはヤコブがお気に入りでした。
神様によって、娶合わされたイサクとリベカ。
理想的な結婚でした。
二人も互いを気に入って愛し合っていたことが伝わってきます。
それが何十年か経過すると、こういうことになっちゃうのですねえ・・・
現代と創世記の夫婦関係の問題の共通項ににんまりしてしまいますね。
だからこそ、聖書から夫婦問題も学ばなくちゃね。

イサクとリベカ、それぞれの好みに合った息子の方をより愛したのでした。
この人間的な愛、自分の都合を優先した愛は自己愛に過ぎません。
この人間愛が、二人の息子が憎しみ合う悲劇を起こしたのでした。
私たちの身近にも、そういう例があるのです。

以前は、そういうことに不快感と怒りを感じたものでしたが、創世記の昔から人間はそうだった! 罪が入ったということはそうならざるを得ないのだ! と諦めの境地になって、貧乏くじをひいたことを神様がご存知だし、それ神様のご計画の中で有益に用いてくださることに期待をかけるようになりました。

著者は以下のように書いています。
「ヤコブは生涯の危機に臨んでいました。神に全く任せる大切な時でした。それはまた、きよめの大切な時期、聖霊に満たされる大切なときでもあったのです。

ある人は、改心と献身の時は同時に起こると考えているので、しばしば問題になります。
しかし、私たちはヤコブのような聖書の歴史を土台として、改心と心をささげる時はずれることもあると考えています。

このことは実際にしばしば起こっています。
その意味は、改心はいつも神にこころをささげた状態ではなく、完全に神に心をささげたり、また自分に頼ったりして揺れ動くのです。

これが苦痛を感じる現実であり、苦しい危機で、また完全な献身をもたらす時でもあるのです。すべての改心は、必ず同じではありません。」


ここで筆者はEGホワイト「各時代の希望・上・202頁」から引用しています。
「キリストは、絶えず心に働きかけておられる。少しずつ、おそらく本人の気がつかないうちに魂をキリストにひきよせているのに役立つ印象が与えられているのである。
こうした印象キリストについて瞑想したり、聖書を読んだり、あるいは説教者の言葉を聞いたりすることによって与えられるかもしれない。
そしてみたまがもっと直接に訴える時、突然にその魂はよろこんでイエスに屈服する。
多くの人は、これを突然の改心と呼ぶが、それは神の御霊が長い間、その人を説得した結果、すなわち、長期間にわたる忍耐強い作用の結果である」



著者の言葉を、私の言葉で確認したいと思います。

・ 改心と献身は同時に起きるとは限らない。同時でない場合が多い。

・ 改心をした後も、神に心をささげた状態の時と、そうでない時と、揺れ動くものである。

・ そうした時には苦痛が生じる。苦悩が生じる。それを危機と感じるならば、献身への準備となる。

・ その揺れ動くときに危機を感じない人もいる。それはそれで「平安、平和」と感じてよいのかもしれない。しかし、危機感が乏しい結果であるとしたらその時点では完全な献身からは遠いのかもしれない。しかし、聖霊はいつも私たちが気づくことを願っておられる。

次に献身について考えてみました。
献身とは、身をささげることである。その献身といえば、先ず、牧師・伝道者・宣教師 になることを思うが、一般信徒の場合、他にも解釈はあると思います。

① 自分を省みずに人のために尽くすこと
② 教会の奉仕に励む
③ 社会的な奉仕・ボランティア活動に励む

献身を誤用すると
①神様第一主義を教会活動第一主義と化して、家庭を軽んじる結果、家族の躓きとなる
②教会奉仕に励むことを自己実現化と混同し自己満足ための手段と化す。

それぞれが、神様から頂いた賜物をフルに神様のために用いることが献身ですね。
「祝福である福音」を、それぞれの置かれた場所で伝えていくこと(伝わるように生きる)が「献身」ではないでしょうか。


マラナ・タ
何よりもイエス様に自分を明け渡さなければ、我力が支配し始めます。
御霊の導きを切に求めます。