ごきげんよう! さわこです。

今、私は聖書通読に続いて「あなたの友 聖霊」をノートを取りながらじっくり読む喜びに浸っています。
2001年に読んだ時には、気づかなかった気づきが与えられて、頭の中が整理されて行き魂は喜び、霊が震えています。

今朝は6章「献身の時」に入りました。
全部で11章からなる書物ですから、ようやく半分です。

79ページ「しかし前の章でみたように、敬虔な多くの人の生涯に、成長の過程がありました.
最後にしっかり神に自分をささげる状態になるまでに、時間がかかり、試練やあやまちもあったのです」

「前の章でみたようにとは」5章の63頁~のことです。
ここも紹介したい箇所でしたから、6章に移る前にノートのまとめを書くことにしました。

青字は本からの引用。
黒字は私の感想。
引用聖句は赤字。
強調したいところはピンク。

主イエス・キリストに心から献身した人は再び罪を犯すことはないか?

そうそう!この質問!
私は信仰を持って以来、今に至るまでこのことが悩みの種であったと気づきました。

「クリスチャンなのに、なんでどす? なんでどす?(あさちゃんの口癖ね)世の人の方がずっと愛情深い。世の中の人の方がはるかに、常識や配慮をわきまえている。世の中の方の人がずっと社会や地域に献身しているわ。」
世の中とは、キリスト教会以外を指します。他宗教や、無宗教の善良な人々のことです。

ここに躓いて、教会から去っていった人もいます。
わが所属する教会のそうした雰囲気を気にして人を誘えないと嘆く意見を聞いたこともあります。

あらゆる種類の人の要望に対応しきれない教会の体力の限界と言えるでしょうか?

それとともに、教会員全員が、信仰生活の長短に関わらず成熟しているわけではないということを教えられたのでした。

・ クリスチャンとして成長しない自分を情けなく思う。

・ クリスチャンに過剰な期待をかけて、結局は裁いてしまう。

・ 自分カラ―満載のクリスチャンに何と横暴な!傲慢な!と心を騒がせる。

・ すべてのことを信仰用語で済ませて語るのでその人の実体がつかめず心が届かない。

・ やたら、自己卑下して謙遜であろうとしている。

・ その逆でクリスチャンであるとの自信がたっぷり、常に誰に対しても上から目線。

・ 寛容であろうとして、なんでもかんでも良い顔をみせて、本心を隠す。

まあ、何と批判精神に満ちた私!いやな私だわねえ(笑)
こういうスタイルの私もまた、成長過程の発展途上クリスチャン。

そして、聖霊様によって私の罪を気づかしていただいた恵みを感謝します。
自分の今まで知ることのなかったこの罪を深く忌み嫌うこと、それで、自分を責めたり、自虐的になったり、自己憐憫に陥ったりするならば、それは古い私の姿。

新生した私は、その悔い改めの思いをイエス様に明け渡す自由をいただいているのです!

聖霊様は、私に速やかにガラテヤ6:2―5を思いださせてくださいました。
「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが、自分の重荷を担うべきです」

新約聖書から・・・
弟子たちは3年半、イエスと共に歩み、友に語りあったのに十字架の前夜に、誰が偉いかと言い争った。病人を癒し、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせていたが、なお、罪の問題を持っていた!


旧約聖書から・・・
・ モーセは、悔い改め、山の上で神と語り、永遠の命を確信していたが、約束の地の境界で罪を犯した。

・ ダビデは、神の心を持つ人と言われたが、姦淫と殺人の罪を犯した

・ ギデオンは、神の御霊に支配されてイスラエルのために大勝利をおさめたが、得意になってレビ人の特権である祭司になろうとした。

・ アブラハムは、神の友と呼ばれたが、妻サラを二度も妹と偽った。

・ エリヤは、カルメル山での大勝利の後、イザベルの脅しに負けて信仰が弱くなった。

・ ノアは、120年の間、不信の人々の罵りや嘲笑にもかかわらず、箱船を造り信仰に固く立ったが、洪水が引いた直後、ぶどう酒に酔い前後不覚に陥った。

・ サムソン、ヨナ、バラム・・・といった弱く無駄口をたたく、どうして預言者という名前を与えられたかと思われるような人々もいた。


【結論】
 一度、主イエスに献身した人は再び罪を犯さなかったかといえば、そうではない。
では、服従は不可能なのか?
否!エノク、ダニエル、エリシャたちのように、キリストに来た後に罪を犯さなかった人々もいるのだ。

では、その違いをもたらすものは、何であろうか?
失敗の原因は何であろうか?

その答えとしてEGホワイトは各時代の希望下巻150ページに

「・・・もし、われわれが承知するなら、キリストはわれわれの思いや、志と一体になり、我々の心と思いを一つにして、ご自分のみこころに一致させてくださるので、キリストに従う時に、我々は自分自身の衝動を実行しているに過ぎない・・・」
と書いています。

ここで、私はこの御言葉を思いました。
ガラテヤ2:19後半から⒛前半「わたしはキリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」

ガラテヤ3:26、27「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」


改心の時にはじまった聖霊のきよめの働きとは、つまりこういうことなのですね。
聖霊が、今まで蓄えていた御言葉を思い起こさせてくださり、悔い改めた私のふさわしい御言葉を与えてきよめ、成長させてくださる助け主であることを実感したのでした。


マラナ・タ
御言葉を蓄える、御言葉に生かされる、それがクリスチャンの生命線。
御言葉は命のパンであるイエス様ご自身!

すべてはキリストに向かっていかなくては、律法も、道徳も、人間愛も偶像になりうるのです。