ごきげんよう! さわこです。

あなたの友 聖霊」1995年5月1日 2刷 福音社発行 定価1800円
モーリス・L・ベンデン 著。 山形俊夫 訳。


今から20年前の本だ。山形先生はもう亡くなられたけれど、訳された時の年齢は84歳!
私も、何度かお目にかかったし、家庭集会にもいらしてくださったし、私の悩みに寄り添って、何度かお手紙も頂いた。
敬愛する懐かしい先生です。

私がバプテスマを受けたのは1990年10月20日。
今では、父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神をすんなり理解できるのに、信仰を持った当初には、聖霊なる神様が分かりにくかった。

「聖霊様がわからないのです・・・」と私を導いてくださった、文書伝道者のST姉妹にお尋ねしたことがある。

ST姉妹は私の父と同い年だったので、私にとって教会で父のような存在だった。
女性なのに父のようなとは変だけれど、母のような存在の私の母と年齢の近いSS姉妹もいたから、それでよしとしよう(笑)

すると、この本を勧めてくださったのだった。

すぐに読んだ!2001年8月23-24日に二回目を読んだと書きこんである。
理屈ではよくわかった。
しかし、実感がなかなか伴わない。
そりゃそうだ、今年三回目を読み返しているのだが、このように含蓄の深い本を二日間で飛ばし読みしてしまったのだから(笑)

でも、「早く知りたい!知りたい!知りたい!」とあがく私がそこにはいたように思う。

カトリック幼稚園育ちと言っても、カトリックの神父と親しくて孤児や問題児の奉仕にいそしんでいた伯母に可愛がられたとは言っても、伯母は社会奉仕的レベルでキリスト教に関心を寄せていたにすぎなかった。

私の家庭もごくごく普通の神仏両方を拝む一般的日本人の信仰だったから、キリスト信仰で聖書を学ぶという背景は全くなかった。

父も母も、その後バプテスマを受けるに至ったのだけれど。

クリスチャンホームやアドベンチストホームで育った人たちのように、空気のように三位一体の神を受け止めることは容易ではなかった。

以来「聖霊なる神様とはなんぞや?」との信仰の旅路が始まった。
信仰を持って三年半後、私は安息日礼拝を教会で守れなくなったこともあって、
「安息日とはなんぞや?」という課題も起きてきた。

この二つは、その後の私の信仰生活のテーマとなって今に至っている。

11月22日から読み返して、今度はノートを取りながらであるが、10日間でようやく三分の一、第3章までしか進んでいない。

感銘を受けたところを、順次紹介していきたいと思う。


推薦のことば  岡藤米蔵
「私どもの教会は、地上における神のみわざが閉ざされる終末の時に、異常なほど豊かに聖霊が臨在するという預言を信じています。

これを「後の雨」と呼んでその日を待望しています。・・・本書は・・・人格としての聖霊を知ることができるように、そして、私どもの毎日の生活の中で、聖霊の力を体験することができるようにという願いをこめて書かれた本です。

・・・イエスは弟子たちへの告別説教の中で、聖霊のことを「助け主」と呼ばれました。助け主とは原語で「パラクレートス」、傍らに立つ者、あなたの友となる方、と訳されています。・・・イエスにとって聖霊は、常に「イエスの友」であられたのです。

・ ・・本書は「友としての聖霊」をあなたに紹介しています。・・・」


はじめに  山形俊夫
「私たちは終末の危機に直面しています。
終末の時代の教会をあらわしている黙示録3章ラオデキヤ教会は『冷たくもなく、熱くもない』と言われ、E・Gホワイトは、この教会に着いて『・・・眠っている説教者が、眠っている人々に説教している』と言われました。

私たちの教会はどうでしょうか。この眠りをさますには、熱心な聖書研究と聖霊の導きによるほかはありません。
また、終末の時代は、サタンがいろいろな霊の働きを通して『できれば、選民をも惑わそうとする』時代です。そこで、聖霊についてよく理解し、聖霊との交わりに入り、その導きのうちにいることが、唯一の安全な道です。」


本を読み続けているうちに、「推薦の言葉」や「はじめに」を読むことが大切だと思うようになりました。

先入観を与えるとか、自分の読み方に支障をきたすとか、いう意見もあるでしょうが、この本の出版にあたっての著者や訳者や発行者の「意図」をつかみとって読み始めることが回り道にならないと思います。


マラナ・タ
一気に、投稿することはできないと思いますが、ぼちぼち、要所、要所をまとめて紹介していきたいと思っています。