ごきげんよう!さわこです

♪日々の祈り
わたしの願いは
神を知ること
愛すること
主に従うことです


6年生の女子3人が私の聖書のクラスの生徒です。

この讃美歌はSDA讃美歌に載っていて、今使っている「希望の讃美歌」には載っていません。

私のクラスでは、分級の始まりに毎回と言うわけではありませんが、たびたび歌います。

私たちは、何を願いとするか、その基本が示されているからです。
以前、3人の少女たちに「この三つの中で、一番難しいと思うのはどれ?
と聞いたことがあります。
すると三人とも「主に従うことだ」と言いました。

「そうよねえ。そういう自分を認めることって、大事なことよ。従っていないのに、従っているふりしたって、神様はご存知だものね。でも、どうして、これが難しいんだろうね?」

「そう、どうしてかしら」とばかりに、彼女たちは首をかしげました。

「私はね、その答えは創世記3章にあると思うの。」
と、3章で、蛇がエバを誘惑したところを、開いてもらいました。
蛇に化けたサタンの惑わしに引っかかってしまったのでした。

エバはアダムを通して、神様が善悪を知る木の実を食べてはならない、死んでしまうからと聞いていたのです。
それなのに、美味しそうで、目を引き付けて、賢くなるように思えたので、取って食べてしまったのでした。
そればかりか、アダムもまたエバから受け取って食べたのでした。

アダムは神様から直接に聞いていました。
エバはアダムから、神様の言われた忠告を聞いていたのです。

そして、二人は神様から頂いた自由意思によって、惑わされたとはいえ食べることを選択したのでした。
神様の言葉よりも、蛇の言葉「決して死ぬことはない。それを食べると目が開け、神のようになるのだ」という言葉の方を自主選択したのでした。

神ではなくサタンの言葉を選んだこと、それが罪だったのです。
それは、神様の言葉よりも「自分がどう感じるか」を基準としてしまったことでもありました。

つまり、神様の言葉に従わなかった!
人類の先祖であるアダムとエバ、エデンの園という完璧な場所で神様と共に暮らしながら、それなのに、神様に従えなかった。
だから、それ以来、人類は神に従うことが難しくなったのよ。

そのことを自分のこととして、気づいていることはとっても大事なことだと思うわ。
それに気づかせてもらっているのは、神様に愛されている証拠よ。
神様に従うことは、自力ではできないことね。
いつも神様に願い求めなくてはね。

以前にそんなことを話したのでした。


先週は、「神を知ること、愛すること、主に従うこと」

この順番が大事よ。
まず、本当の神様はどういうお方か知ること、神様のご性質を間違えて理解しないこと、
神様は愛を持って私たちを造ってくださったこと、それを知ることが大事ね。

次に神様を愛すること。神様に愛されていることを知った時、神様の愛が私たちの神様を愛する愛を呼び覚ましてくださる。
神様から下さった愛への応答ってことね。
だから愛することができる。

この順番があってこそ、神様にお従いすることができるのね。
従う決意は自分の選択だけれど、従えるように導いてくださるイエス様がいるのね。
イエス様はご自分が十字架におかかりになることで、神様と私たちの関係を正してくださった。


この三つは「知・徳・体」とも言えるのかもしれない。
神を知る知識という神の知恵。
愛する心、愛という徳目。
主に従う、という行動に結びつく決意。

自分の意志を、神様におささげしなくては、従うことはできない。
自分の意志を、神様の支配下に置かなくてはね。
それを「自己を明け渡す」と表現したり、「自我に死ぬ」と表現したりするのだと思う。


そして、今日は、
「備えあれば、うれいなし」って言葉知ってる?
「はい! 地震とか津波とか、に備えておくと安心ってことです」

「そう、その通り。
私たちは他にも備えなくちゃならないことがあります。
それは何だと思いますか?」

「ご再臨です!」打てば響くように返ってきました。

「どんなふうに備えていますか?」

「聖書を読んで、み言葉を蓄えることです」
「いつも、祈っていることです」
「神様にお従いすることです」

と三人は、それぞれ、模範解答!(笑)

三人のうち二人は、バプテスマを受けています。
自分の意志で、自分から進んでのバプテスマです。
親や牧師や担当教師に勧められてではなく、自分から進んで受けたいと申し出たのです。
つまり、神様への愛の応答として、もっと大きくなるまで待つことなんてできない!
との思いからでした。

親御さんと一緒に教会に来ている子供たちです。

あと、一人は、教会員の友達のお嬢さん。
親御さんは、信仰を持っていません。
でも、小さい頃から、教会の子供行事に参加していました。
この夏にも例年のように「夏休み聖書学校」に参加して、そしてイエス様に捕えられたようなのです。
聖書学校が終わってから、安息日礼拝に自分から来るようになりました。
母親が読まないままで置いてあった聖書を自分の聖書として読み耽り、1か月足らずで完読。
聖書学校で学んだ聖句もよく覚えています。


リビングバイブルというわかりやすい聖書があります。
一人の少女は、自宅にあるリビングバイブルで、聖書通読を始めています。
調べてみたところ、この本は売り切れてしまって、もう手に入らなくなっていました。
再版されるのを待たなくてはなりません。
でも教会の本棚に二冊あるのを見つけました。
二人が読みたいというので、牧師の許可をもらって長期の貸し出しをしました。

また、「天路歴程」の子供版も順次貸し出ししています。
この本も、喜んで借りてくれました。
私のクラスのこの三人は、読書の好きな少女たちです。
飢え渇くように、神様を知ることを求めています。
神様を知る喜びにあふれています。

私の霊も、彼女たちとの主イエスにある交わりでいつも喜んでいます。
私も健やかな信仰が維持できます。

神様の霊が注がれている彼女たちは私の信仰の親友です。



マラナ・タ

終わりの時代です。

「その後
わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。
あなたたちの息子や娘は預言し・・・」
         ヨエル書3:1