ごきげんよう!さわこです。

続きです。

11、ポール・トールニエ「罪意識の構造」ヨルダン社より

①間違った罪悪意識をもつ

②信仰者の欠けを罪であるかのように考える

③しかし、欠けがあることは、信仰を呼び戻す機会である

④欠けがあることは、信仰を行動に移すべきときである

⑤欠けがあることは、神の働かれる場を備えるものとなる

⑥疑問を抱くことを不信仰と考える人々がいるが、キリスト者は疑いがあることを認めたうえで神を信頼する。
コリント第24:8「途方に暮れていますが、行き詰ることはありません」とパウロは言っている。



12、サタンがエデンの園で最初に攻撃したのは、

①人間の心と思いであった。

②現代人は、政治的宣伝力に洗脳され、ヒューマニズムという人間中心主義に占領されている。

③サタンは現代人をバビロン捕囚に追いやっている。

④かつてのダニエルたちのように、私たちは無神論者の洗脳計画のもとにおかれている。

⑤思考を錨でキリストのもとにつなぎとめておかなければ、それは“人間哲学”という潮流によって翻弄される。
思考はいとも簡単にこの時代のおろかな流れに従ってしまう。

1世紀にはグノーシス主義に、4世紀にはアリウス主義に、20世紀には無神論に。

⑥悪魔の20世紀における活動計画は、神の御言葉の確かさへの確信を崩すことにある。



13、キリストの勝利を土台に

①すべての問題、逆境、困難は、キリストこそが解決となられる。

②キリストはこの世界の全権を握り、存在し得るすべての世界を支配しておられる。

③キリストが世に降られたのは、私たちを再創造するためである。

④キリストが世に降られたのは、私たちの自己中心の意識を、神中心の意識に造りかえるためである。

⑤キリストは、主の思いが私の思いとなるために引き上げてくださる。

⑥キリストは、私たちが今持っている心を神の愛によってきよめ、神の愛が私たちを通して流れ出るようにしてくださる。

⑦キリストは「あなたの生活の中に入り、人生のひとこま、ひとこまを共に統治できるようになりたいのだ」と言われる。


14、信仰の戦い

①1世紀のキリスト者たちは「全く献身的で神にあって恐れを抱かず、何が起こっても幸福感を失わず、そして常に困難のうちに置かれていた」

②1世紀のキリスト者たちは、背教的な宗教と猛威を振るう世俗主義の中にいた。
(21世紀のキリスト者たちも同様ではないか!今の時代が、今の日本が宣教困難で不利な条件下にあるのではない。)

③“今、提唱されているエキュメニカル運動は虚構である”
 (このエキュメニカル運動は30年前からあったのだ!近年に始まったのではなかったと知って驚いた。プトナム牧師は30年前にそれを虚構だと看破しているが、再臨前の終わりの時代の特徴のひとつであることを再認識した)

④人の受けを良くし、人の歓心を買おうとする、センチメンタルな感傷主義など、世の評判を求めることに陥ってしまい、福音を世俗の出来事に格下げしてしまう。

⑤その結果、教会は祈りと宣教の厳粛な場であるこが忘れられ、社交クラブか何かのように世の人から見られてしまうのだ。

⑥人々は、一時の気休めを求めて教会を訪れ、自分の必要に応じた同情と施しを求めようとする。


マラナ・タ

自己を放棄せよ。自我は罪である。自己を否定せよ。
このような勧告を聞くことがありはしないか?

この勧告を難しく受け止めては、精神的混乱を招き迷路に入ってしまう。

プトナム師は、至ってシンプルに、こう書いているのだ。
「私たちは自己を放棄し諦める必要はない。
ただ身勝手な生き方をやめればよい。
放棄しなければならないのは、従来の低俗で狭い考え方なのである」
と。