ごきげんよう! さわこです

「神の武具による勝利」より紹介したいところを・・・

1、エペソの手紙より、信仰生活に欠くことのできぬ事柄とは
① 神の祝福を受けよ
② 神に倣う者となれ
③ 聖霊に満たされよ、さらに主にあってその力によって強められよ。

2、この地上には
「キリストにある」人たちと「アダムにつく」人たちの二種類しかいない。
「アダムにつく」人たちとは、新生経験のない古い人のこと。
“何かをしなければ救われない”と思っている人たち。


3、キリストの内に置かれるとは、
現実離れした生活への隔離ではない。
大地の上に足を据えた信仰的生活を生きることである。


4、聖霊に満たされるとは、
①すべての問題が一挙に解決することではない。その逆であることもしばしば多い。
②神は聖霊に満たされていない者を、戦いの場には遣わされない。
④ 神が評価なさるのは、試練を経た信仰。


5、悪魔(サタン)とは
①人格的な存在
②人間の意志に働きかける術を心得ている
③悪魔は私たちの内にある意図的に神に逆らおうとする傾向に目をつける
⑤ パウロは、サタン「この世の支配、権威」と呼んでいる。


6、サタンの策略の全容
①偽りを言う
②告訴する
③破壊する
④中傷する
⑥混乱をもたらす
⑦論争を好む
⑧サタンの最大の攻撃は「神への信頼」に向けられる
⑨失望感に見舞われる
⑩意気消沈
⑪不吉な予感
⑫きわめて些細なことに傷つく
⑬急に物悲しくなる
⑭恐怖のとりこ
⑮将来への不安
⑯現実への不平不満


7、「真理の帯」と言う武具を身に着けると・・・
①それによって「嘘つき」であるサタンに立ち向かうことができる。

②真理とは客観的事実に基づき同時に主観的に判断されるもの・・・心の純粋さという真理はとんでもない過ちを引き起こす場合がある。

③信仰は理性を否定するものではなく、理性を超越しているもの。

④心から神に対して正直にならなければ、「真理の帯」を締めることはできない。それをなくして、どれほど重大な社会問題を解決しようとしても失格者である。個人の道徳に置いて正しい基盤を築くことに失敗した人が人類の問題を集団的に解決しようとしても、神の御前に空しいのである。


8、教会の社会活動の動機を考える
①もし、失われた平安を、個人的な倫理に置いて挫折した人々が、他の人たちの問題を解決することによって、埋め合わせようと望んでいたとしたら・・・
熱心に動き回ることで良心の呵責を押さえつけようとしていたなら・・・
その活動や奉仕の動機はどうであろうか。

②パウロは、そういうことから自分の破綻を悟ったのである。
欠けのあることへの解決方法は、“自分が非の打ちどころのない者”となることではなく、自分が真実の愛を持ち合わせていないことを認めて、神の愛を祈り求めるところにある。

③キリストを救い主として受け入れ、自分のありのままの姿を認めて、キリストを仰ぐことしかないのである。


9、キリストの内にあるとはどういうことか。
①キリストの内にとどまること

②自分がキリストの体の一部分であることを認めること。

③身勝手な自己主張を捨てること。

④“自己放棄”と表現されることが多いが、正確に言うならば“自己に対する権限の放棄”であ
る。それこそが“ゆだねること”である。

⑤神からお預かりした所有物を正しく管理することこそ、正しく有意義なことである。

⑥神との正しい関係とは、神への100%の依存である。キリストへの全人格的、絶対的、恒久的な依存である。

⑦きりすとは、まことの人間性を回復させてくださる。このことが「正義の胸当てをつける」という表現の意味である。


10、祈りとは
①祈りは事態を変更させるものなのか?祈りによって、常に事態は好転するとは限らない。

②祈りによって、変えられるのは、先ず私たち自身である。

③祈りは神の思いを変更させるものではないからである。

④神は物乞いや不平不満だけを訴える者たちの言いなりになる方ではない。願い事を告げる前に、神の臨在を熱心に求めるものに神は報いてくださるという確信をまず、自分の内に育まなければならないのである。


マラナ・タ
長くなりすぎますので、このあたりで。
「神の武具による勝利」③に続きます。