ごきげんよう! さわこです

「神の武具による勝利」この本は、信仰の親友が、母教会の本棚から見つけて借りてきた。
そして貸してくださった。
自分の本ではないから、線引きも書き込みも不可(笑)

本を傷めないように、読み終えたらブックオフに直行できるように読む人もいらっしゃる。
まとめての断捨離でなく、日々の生活スタイルが断捨離なのだ。

私にはとても真似できない離れ業(笑)

私の本は、三色の色鉛筆で線を引き、自分の見解を書き込み、欄外にはその箇所の要点を書く。
まるで、受験生の参考書のごとき状態である。

私の本を借りてくださった方は、
「だから面白い。役に立つ。そうか、さわこさんは、ここで、こんなことを考えたのだな」
と思いつつ読むから、共感したり、そうは思わないけれど、と思ったりするので楽しいのだと言う。
つまり、さわこという人格に出会えるからなのかと思う。
そういう心の交流、思索の交流は、信仰の友情となっていく。

さて、ロイ・C・プトナム著「神の武具による勝利」は、他教会の図書だからノートにまとめながら丁寧に読んだ。

1984年2月1日 聖書図書刊行会の発行、いのちのことば社から発売されていて
定価1600円。
30年前の本で、入手は難しいようだ。

プトナム師は1928年生まれ、メソジスト教会の牧師。

この本の中で、もっとも印象に残った所の一つは「ロゴス」と「レーマ」の違いについてだった。

「8、すべてをしのぐみことばの力」 の章に書かれてあったところを紹介します。以下

さて、『心に刻まれた神の言葉』が実生活における力となるという、この奇蹟を生み出すのはいったい何であろうか。・・・

『御霊の与える剣である、神の言葉を取りなさい』と明言されている。

神の言葉を私たちが現実に当てはめることができるようにしてくださるのは、聖霊なのである。

ここで「言葉」と翻訳されているギリシャ語は、ごく普通の「ロゴス」ではなく、もっと特定の内容を指す「レーマ」である。

ロゴスもレーマも神のことばを意味し得るが、前者は客観的な神のことばを指している。
後者は、特定の状況に置いて特別な仕方で語られる神の言葉である。

・・・聖霊は、私たちが読み、たくわえた聖句を思い出させてくださるであろう。

ここに計画的な聖書研究が命じられていると言える。
御言葉に深く根差した生活は、豊かな祝福を受ける人生である。
そして、豊かな祝福を受けると人生とは、聖霊に従順に聞き従う人生のことである。

聖霊は「ロゴス」を私たちの心に与えられる。
それによってことばは「レーマ」となり、御霊の剣となる。

「レーマ」という単語が用いられているテキストをいくつかあげてみたい。

ローマ10:7「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばに(レーマ)によるのです」

ヨハネ6:63「わたしがあなたがたに話したことば(レーマ)は、霊であり、またいのちです」

ルカ1:38「マリヤは言った。『ほんとうに私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことば(レーマ)どおりこの身になりますように』」

ルカ5:5「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何ひとつ取れませんでした。でも、おことば(レーマ)どおり、網をおろしてみましょう」

さて、これらの例により、それぞれの文脈に置ける「ことば」が特定の目的を持ち、決定的な瞬間に発せられた特別なことばであることがわかる。

私たちは聖書の言葉(ロゴス)を何気なく、また誠実な思いを持って読んでいる。
すると突然、神は特定の言葉によって心をとらえられる。

その御言葉が、漠然とした一般的な響きではなく、今の現実として光を放ち始めるわけである。

パウロが、テサロニケの人々に対して「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」と書き送ったのは、そういう意味である(1テサロニケ1:5)・・・
以上


私自身を振り返ってみて、この神のことば「ロゴス」が「レーマ」となって、私に臨んだ瞬間のことを覚えている。

キリスト教嫌いだった私が、コリント第一10:13によって、キリスト様に瞬時に捕えられた時が、始まりだった。

その瞬間、私はクリスチャンになったのだった。

まだ、教会にも行っていない、もちろん沈めのバプテスマにもあずかっていない。
しかし、教会に行き安息日礼拝にあずからないではいられなくなったのである。

聖霊様が私の道案内をし、私の背中を押して安息日ごとに教会に引っ張っていったのだった。
誰かに、勧められたのでもなく、救われて天国に行きたいと願ったからでもなく、自分の罪深さに呻吟していたのでもなく、神様に赦しを求めて切羽詰まっていたのでもない。
ただ、人生のトンネルに突入していたのだった。
いかに在るべきかを求めて片っ端から学んでいたのだった。

その教会には、預言の声通信講座を勧めてくださった文書伝道者の老婦人がいらっしゃること、彼女に私の自宅を訪問するようにと勧めた二従姉がいることだけは分かっていたが、教会員たちとの社交的交わりを期待したのでもない。
SDA教会にかかわることで、安全な三育フーズを入手しやすくなるとか、こどもを教会の学校にいれるチャンスが得られるとか(世の中の学校は荒れていた)そういう個人的な願望があったわけでもない。

ただただ、イエス・キリストに捕えられたとしか言いようがなかった。
御言葉「ロゴス」が「レーマ」で私に臨んだからであった。

聖書を読んでいて、私の霊が躍動するのは、ロゴスがレーマとなった時なのだ。
それがデボーションタイムの真骨頂と言えるのかもしれない。

この感動や喜びを語っても、共感してくれる人ばかりではない。
ドン引きされたり(笑)、クールだったり(笑)、怪しまれたり(笑)、問題視されたり(笑)、聞いてくれているようで、聞き流されているな(笑) 等などありはするのだが、この本によって私は受容してもらったことがうれしい。

いいえ、神様ははじめから受け入れてくださっていたし、私の喜びをともに喜んでくださっていたのだ。

マラナ・タ
長い年月誰かに読まれることもなく、
本棚の隅で佇んでいたこの本が親友の手に渡ったこと、
彼女が感動してまず私に渡してくれたこと、
聖霊様はこのような粋な計らいをしてくださるのだ。