ごきげんよう! さわこです

コヘレトの言葉(伝道の書)は
「空の空、伝道者は言う。空の空、すべては空。」口語訳
「コヘレトは言う。なんという空しさ なんという空しさ、すべては空しい」新共同訳
から始まっている。


多分、多くの日本人にとって、伝道の書(コヘレトの言葉)は好まれているのではないか。
聖書って、般若心経と似ているところがあるんじゃない?と思ってしまうフレーズだから。

般若心経と言えば「色即是空」「空即是色」
と出てきますね。
意味は分からなくても、聞いたことがある!と。
読み下せば「色は即ちこれ空、空は即ちこれ色」
でも、分かりませんよね。

色(しき)とは、形あるもののことです。
「形あるものは、即ち空である。
また空であるものこそ、形あるものである。」

分かりますか?私はわかりません。言葉遊びのような、禅問答のような。

○○年前、学生時代「美学」の授業を選択した時のことを思い出しました。
小柄で白髪の老教授が「空即是色・色即是空」ばかりを語り続けるのです。
なんだか、煙に巻かれたようで、わかったような、わからんような。
半年にわたるその授業の終わりに、質問をするようにとおっしゃいましたから「空ってなんですか?」と私。

穏やかだった教授は、不機嫌になり、「今まで何を聞いていたのか!」と一喝されました。
私はとても恥ずかしい思いをしたのでした。
授業を一回も休むことなく、「代返」も「代出席」も頼むこともなくわけのワカラン話を、分かりたいと聞き続けて、やっぱりわからなくて、ついつい、アホな質問をしたのでした。

今までも、その老教授の語った「空」はわかりません。
ただ、それ以来「空とはなんぞや」の答えを自分で探すようになったことは確かです。


9年ほど前、30代の若いお寺の住職のもとに座禅断食に行ったときのこと。
座禅を組んで心を無にする、という訓練をしました。
何も考えない、考えてはいけない。
座禅断食の参加者のみなさんは、心を無にして何も考えない、ということがとても難しい。
いろんな思いが次ぎつぎに去来し、それを追いやることができないというのです。

ご住職はそこで「無理矢理、無にしようとしなくていいから、ただ数を数えることだけに専念してごらんなさい」と言ってくださいました。
ゆっくりと息を吐いて、吐ききったら、息を吸う、それで「一」。
それを繰り返すのです。

数を数えるというよりも、「呼吸」に専念すると言った方が良いかもしれません。
このゆっくりしたテンポで70回から80回、数を数えると20分の座禅が終わるのです。

そして1時間のフリータイム。また20分の座禅。それを何回も繰り返す。
断食するという空腹への執着を、丁寧な呼吸によって克服するといった感じでしょうか。

そのためには単純に数を数えるようにと教わりました。
それが、心を「空」からっぽにする方法の一つだと。
それをとにかくやってごらんと。
自分の心を無にするとは、空っぽにすること、「空」とはそういうことなのか・・・と思ったのでした。

老教授の授業よりも、数だけをゆっくり数えるレッスンを通し「空」を体感することの方が、分かりやすかったのです。


私の手もとには、今、実業之日本社発行の大和昌平著「牧師が読み解く般若心経の謎」があります。

コヘレトを読みながら、ふと読み返したくなって8年ぶりに開いてみました。
この本は、2007年7月19日が初版第一刷発行で、即購入し、9月7日には読み終えています。

座禅断食を指導してくださったご住職にもお見せしたら購入なさいました。
仏教徒もキリスト者も読んでみたくなる本なのです。

2007年に何冊か購入したのですが、ご住職はじめ、母やだれかれから欲しいと言われてお分けしてしまい、手もとには一冊しか残っていません。
今、アマゾンで検索してみましたら、どうやら新品の入手は困難なようで1500円+税の本が中古で3000円以上になっていました。

この本に、書かれているところを少し紹介します。


①般若心経は、教えとして初期大乗仏教の中核をなす「空」を説いている経典です。
・・・「色彩ある者は、人間は、そして世界は空である」と宣言しています。
ただし、空であるとは、何も無いと言っているわけではありません。
有るのだけれども、いつまでも変わらずに有るのではないと言っているのです。
いつまでも変わらずに有るものを哲学では実体と言います。
だから、仏教の立場は、実体論批判であると言うこともできるでしょう。
世界は常に移り行くものとしてそこにあるのであって、それ以上のものは存在しないと言う主張です。

② 般若心経のこの教えは「諸行無常」と言われてきたものであり、目の前の世界は常に移り行くものであり、この世の中に絶対的な確かさを有するものは存在しない。
それを見定めることをゴーダマ・シダールタは覚り(さとり)と呼び、確かなものでない自分に執着し、しがみついてはならないと諭すのです。

③ 紀元1世紀に大乗仏教運動が起こり、般若心経が先頭を切って叫んだのは「空」でした。それは原点回帰であって、ゴーダマの説いた「無常」「無我」の教えに立ち返ろうとしたので、原点回帰であるからこそ「空」の主張には力があったのだと思います。

④ 般若心経のもう一方のポイントは、マントラで締めくくられていることです。
マントラとは大乗仏教に置ける密教で用いる呪文を指します。
密教においては手に印契をむすび、口にマントラ(真言)を唱え、心を一点に傾注させる。
この神秘主義的な行を三密と呼びます。
・・・それによって、行者と宇宙あるいは仏との一体化を図ろうとするのです。
宇宙の本質と自己の心を一体化させることは、古代インド哲学の中心テーマでもありました。

⑤般若心経の最後のマントラは
「羯帝羯帝 波羅羯帝 波羅僧羯帝 菩提僧莎訶 」
ぎゃってい、ぎゃってい、はらそうぎゃってい ぼじそわか
意味は「ゆきたる者よ、ゆきたる者よ、彼岸にゆきたる者よ、完全にゆきたる者よ、覚りよ、幸いあれ、と」
「般若」は智慧、「波羅蜜多」は完成。「般若波羅蜜多」は智慧の完成を意味しており、マントラはその智慧の完成を讃えているのです。

⑥ 智慧の完成は「空」を体得することである。

⑦ 般若心経の「空」と伝道の書(コヘレトの言葉)の「空」は全く違う。
聖書は神を知らない人生の空しさを語っている。
その意味で仏教の「空」をとってしまったところから、西欧における「空」の誤解が始まった。


頭の中を整理するために確認しました。

①②③④の要点を反復した(緑字)上で私の見解【青字】を書きます。

空であるとは、何も無いと言っているわけではない。
有るのだけれども、いつまでも変わらずに有るのではない。


 つまり、あるものは必ず変わっていくということ、そうですよね。ものは成長するし、劣化もする、変化する、当たり前といえば、当たり前。当たり前の発見、当たり前の確認でもある。それを「空」と表現するところが新しい、面白い。「空」とは②にある「諸行無常」と同じ意味。空=無常

「諸行無常」とは、目の前の世界は常に移り行くものであり、この世の中に絶対的な確かさを有するものは存在しない。

つまり、ゴ―ダマ・シダールタは「絶対者」ではなく「この世」を見ているのだ。
天を、神を、絶対者を見て語っているのではない。
そこを知ってゴーダマの教えを学ばなくては混乱する。

それを見定めることをゴーダマ・シダールタは覚り(さとり)と呼び、確かなものでない自分に執着し、しがみついてはならない。

つまり、この世の中のシステムを理解することそれが「覚り」ということ。
「世の中なんてこんなもんさ…と達観した姿勢?」
そして、世の中の不条理を受け入れられず、こんなはずじゃない!こうあってはならない!と葛藤し反発する。自分の価値観(「我」と表現)を基準にすることで起きる苦悩ともいえるかもしれない。
その現象を「執着」「しがみつく」と表現しているのだなあ。


般若心経の教えはゴーダマの説いた「無常」「無我」の教えに立ち返ろうとするもの
つまり、世の中のすべては、移り変わり行くもの「無常」
つまり、自分の考え、価値観を絶対視しないことを「無我」と言っているのかな。

マントラとは大乗仏教に置ける密教で用いる呪文。行者と宇宙あるいは仏との一体化を図ろうとする。宇宙の本質と自己の心を一体化させる。

マントラって、「異言」のようなものかしら?
「宇宙(仏)と人間の一体化、宇宙の本質と自己を一体化」って、つまりは「キリストと一つになる、キリストの心を我が心とする、キリストの義を着る」という意味でなら私は理解できるのだけれど・・・宇宙の本質とは創造主だから。
宇宙で、天使の長ルシファーから罪が始まり、人類の父祖に罪を起こさせ、創造主と被造物である人類の関係が損なわれたので、その関係を修正するために、神ご自身がご自身の命を持って贖われた、それが十字架、というのが聖書の教え。
罪の発生の本元であるルシファー(サタン)を最終的に裁くことを創造主はなさる。
それが最後の審判とか言われている。



結論
般若心経の「空」、伝道の書の「空」は同じ意味ではない。
般若心経の「空」は、この世のすべては「諸行無常」。あれもこれも「常でない」のであるのだなあ。
伝道の書の「空」は、この世であれこれ試みたこと、体験したこと、はすべて空しかったなあ。

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