ごきげんよう! さわこです

先だって、朝祷会に出席しました。
アシュラムで知り合った方から、お誘いを受けて1年前から出席しています。
会場は、この地で一番古く、明治時代に建ったキリスト教会。
今年で創立130年を迎えました。
夫の曽祖父が明治時代に長老をさせていただいていた教会です。
そんなご縁もあって、出席するようになりました。
朝7時半から9時くらいまで。
夏場には暑くなるまでに、行って帰って来られます。
私の教会よりも地理的に少し近くです。

先日の担当牧師のメッセージは、ルカによる福音書10章25-37節の善きサマリヤ人の例え話からでした。

私たちはともすれば、この物語を「善行のおススメ」として、あるべき「愛の理想形と無償の愛」の実行の奨励のように読んでしまってはいないでしょうか。
その読み方でよかったのか、あらためて考えてみましょう。

律法の専門家が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と訊ねています。
この問いかけは、私たちの質問でもあります。
しかし、25節には「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った」と書かれていますから、この質問は、私たちの質問とはどうやら違っているようです。

質問の目的は、「永遠の命を受け継ぐ方法」を訊ねているのではなく、イエスを試すためであるとあります。
彼らはイエスに質問するまでもなく、自分の知っている答え以外の答えを求めているのでもないことが分かります。
イエスへ陰謀であるのです。
そして、イエスは、彼らの思いをはるかに超えたお答えをなさいました。

サマリヤ人とユダヤ人の間には、その歴史的事件から、根深い対立がありました。
ユダヤ人の同胞でさえも見棄てた旅人を、対立関係にあるサマリヤ人が救った博愛主義の実践、無償の愛の実践としての美談とその奨励として理解することにとどまってしまっていいのでしょうか。

その奨励を「本当に自分は実行できるのか。そのように生きられるのか」と自問してみるならば、掲げた理想と現実のギャップに、実現不可能な自分に直面するのではないでしょうか。

イエス様は37節に「行って、あなたも同じようにしなさい」と律法学者たちに言われるのです。

思わず「勝負あった!イエス様の勝ち!」と言ってしまいたくなります(笑)

姦淫の現場で捕えられた女性に対して、祭司や律法学者やファリサイ派たちが、イエス様に「どうするか?」と訊ねた時、「あなたたちの内で、罪を犯したことのない人から石を投げなさい」と言われました。そして、年長者から一人、また一人と立ち去って行った、というヨハネ8章1-11節のお話を思いました。

「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエス様のお言葉を、律法学者たちをやりこめた言葉だと、傍観者的に読むことも、私たちは出来ないのです。

イエス様のお言葉は、いつも「わたし」への問いかけであり奨励であると読んでしまう信仰を持っているからです。

そこに人間の理想であり、為すべきことと分かっていながら、出来ない、出来てこなかった自分を直視しないではいられないのです。
「イエス様の求めることをできていない私、でもイエス様はそれをせよ」おっしゃる。
このように読んでしまうならば、イエス様のこのお話を根本的に誤解してしまうのではないでしょうか。

このたとえの底にあるものに目を注がなくてはなりません。
サマリヤ人は、イエス様の姿なのです。
その手掛かりとなるのがヨハネ10:33「・・・サマリヤ人は、そばに来るとその人を憐れに思い・・・」の「憐れに思う」という言葉です。
この言葉はイエス様から人間に向けて用いられていますが、人間から人間に向けて用いられたのはここの箇所だけなのだそうです。
神様(イエス様)しか、使われないお言葉のようです。

憐れに思う、憐れみ深い、とは内臓がちぎれるほどの痛みを言います。
イエス様は、人間の痛み苦しみを、腸(はらわた)がちぎれるほどの痛みをもって憐れまれるのです。

私たちが何かによって深い痛み苦しみにあっているとき、その苦しみを共に担ってくださるお方がいらしゃる。
そのお方はイエス・キリストなる神様、創造と贖いのお方です。

私たちは人とのかかわりの中で傷つく経験をします。
傷つき合う人間に向かって、「行って、あなたも同じようにしなさい」とイエス様はおっしゃいました。
私たちは人間関係の中で、自らの欠け、愛の不足、配慮の足りなさ、を知り、それゆえに隣人を大きく傷つけた痛みに七転八倒するのです。
しかし、そこで、イエス様の愛を経験できるのです。

「行って、あなたも同じようにしなさい」とは、
「隣人と共に歩む道に立て。イエスの支えがあるのだから。」
そういう励ましの言葉に聞こえてきます。


メッセージを頂き、出席者は順番に祈っていきます。
そして、ジュースをいただきながら、語りあいの時間になります。
そのときの出た話について、私は思わず
「人間のピンチは神のチャンスっていいますね。」
すると牧師が
人間の混乱と神の摂理によって歴史は支えられる、という言葉もありますね」

私は初めて聞く言葉でしたが、本当にそうだと共感して、ノートに書きました。
参加者の一人の女性が、
スイスは人間の混乱と神の摂理によって支えられている、という言葉が出典のようですよ」と説明してくださいました。

スイスの歴史にかぎらず、すべて人間の歴史は、血と混乱で満ちています。
エデンの園で、神様への反逆が始まった時から、血と混乱が入ってきました。

しかし、人間の混乱の中に、神様の摂理の手が伸ばされていることを、私たちは聖書の中に見出します。
人間の歴史の中にも、個人的な体験の中にも見出します。

旅の途中、おいはぎに襲われた「ある人」、祭司からもレビ人からも見棄てられたその人。
その混乱の中に、イエス様は介入なさいました。

天地万物を造られた神様は、ご自分の作品である天地の万物に、そして手ずから土をこねて、ご自分の命の息を吹き込んで造られた人間を深く愛してくださっており、反逆により、罪が介入して地と混乱に満ちてしまった世界で苦しみあえぐ被造物たちを、はらわたがちぎれるほどの痛みを持って憐れんでくださっているのです。


マラナ・タ

「スイスは人間の混乱と神の摂理によって支えられている」と言う言葉があります。
スイスの歴史にかぎらず、すべて人間の歴史は、血と混乱で満ちています。
神の摂理とは、神の憐れみです。