続きです。

ごきげんよう!さわこです。

著者はこう書いています。
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イエスは「平和を実現する人、平和をつくりだす人人は幸せだ」と言われます。
幸せなのは「平和を愛する人」でも「平和を楽しむ人」でもありません。
また「争いを好まない人は幸せだ」でもないのです。

むしろ、平和のないところに、その身を置きながら「平和をつくりだす人は幸せだ」と言うのです。
争いがある、息詰まるような緊張がある、その現実の中で「平和を実現するものは幸せだ」というのです。

考えてみれば、この世界に本当に平和などないのではないのかもしれません。
戦争がない、暴力がない、それだけでは本当の平和とは言えません。

人間関心の相克の痛みがあったり、疎外感の悩みがあったり、優越感、劣等感の心の葛藤があったり、病苦の涙があったり、別れの悲哀があったり、そのようなところは平和ではないのです。

人が生き生きと、伸びやかに生きることができないところは、決して平和ではないのです。
人が傷つくところは平和ではないのです。
イエスはそのようなところに身を置きながら、平和を実現する人は幸せだと言われたのです。

戦争に反対することは大切なことです。暴力には抵抗することも大切です。
しかし、さらにぎくしゃくした人間関係のよどみの中に新しい新風をもたらすこと、劣等感に沈む人の笑顔を呼び戻すこと、悲しみに打ちひしがれる人に勇気を与えることのできる人は幸せなのです。

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戦後70年そして終戦の月である8月。
世の中のメディアは、今の政府に政権を任せていたら再び戦争が起きるとばかりに、平和を訴えます。
あなたの息子が戦場にとられて行ってもいいのか?と。

メディアから伝わってくるのは、我々こそ「平和を愛する人」「平和を楽しむ人」「争いを好まぬ人」であるという自負心です。

世の中の平和運動と、キリストの与える平和とは同じではありません。

数年前に読んだキリスト教関係の本に(本名、著者名は全く覚えていないが)イエス様を革命家と表現していました。

ローマの圧政に苦しむユダヤの民も、イエス様の奇跡を起こす数々の力を目撃して、イエス様こそ、ローマ打倒の救い主だと革命家のリーダーの姿と重ねて期待をかけました。

確かにイエス様は、信じた人を徐々に、あるいはダイナミックに造りかえてくださいます。
イエス様の品性に近づくものへと再創造してくださいます。
そうした意味では、革命家とも言えるでしょう。

イエス様に出会って、神様のもとに立ち帰った人は、価値観がすっかり変わりました。
神様中心の思考を持ち、神様に自分自身をおささげして、神様の愛と平和に準ずる生き方を望むような人間へと変えられて行きます。
自己の魂レベル、生活レベルで個人的革命が起きたと表現することも出来るでしょう。

しかし、人類の歴史に置いて、革命というと、ロシア革命、フランス革命・・・etc
同胞の民が、主義の違いによって殺されました。
自由、平等、平和を旗印としておびただしい血が流されました。

またローマカトリックの堕落に反旗を翻して、真の宗教に帰ることを求めて宗教改革が起きました。
宗教改革の後にフランスのユグノー戦争、オランダ独立戦争、そしてドイツの三十年戦争が続きました。

今も、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の宗教戦争は続いています。
宗教戦争は同胞の血、民族間の血を流し続けます。

イエス様も十字架の上で、ご自身の血を流されて、人類をお救いくださいました。
しかし、人類には「あなたは殺してはならない」「互いに愛し合いなさい」と命じられました。

真の平和は、イエス様のご再臨の後に訪れるのです。

マラナ・タ
希望の讃美歌248番

♪まことの平和を ひたすら 求めん
ひさしく 待ちにし 主よ 来たりませ
おそれを 取り去り 力を与え
われらを 罪より 救わせたまえ

♪まことの自由を ひたすら求めん
久しく 待ちにし 主よ 来たりませ
こころに やどりて 行く道 守り
さかえの御国へ 導きたまえ