ごきげんよう! さわこです。

島田牧師の「悲愛の人」の続きです。

イエス様の山上の垂訓の中のお言葉
「憐れみ深い人は幸いである。その人は憐れみを受ける」

島田牧師は、こう書きます。

「憐れみ」というのは、苦しむ者と共に苦しみ、
悲しむ者と共に悲しみ、泣くものと共に、泣くことです。
そしてあくまでも、生身の隣人に対する態度なのです。
人は、神が内にいてくださらなければ、
誰も憐れみ深くあることはできないのです。
神の憐れみに包まれた者だけが、
隣人に対して、憐れみ深くあることができます。

今まで、神様の憐れみについて何人もの牧師からメッセージを頂きました。

神様の憐れみ深さとは、内臓がちぎれるほどの痛みなのだと。

ご自身の造られた人間が苦しむ時、悲しむ時、神である主イエスが側に居てくださって、人間の苦しみ以上の苦しみをもってご自分の痛みとして感じてくださるのだと。

自分の苦しみがイエスの憐れみに包み込まれている人だけだ、真の隣人愛を持たせていただけるのだと。

神様の憐れみとは、人間的な同情やヒューマニズムとしての人類愛や博愛精神をはるかに超越したものなのだと。


以前、ある方に神様はどういうお方だと思われるかと訊ねたことがありました。
その方は「憐れみ深いお方です」と答えました。
まさに、正解、正論でした。
神様の憐れに深さに包まれる時、神様は私たちを、そのままの堕落した状態には捨て置かれません。
私たちの人格、品性は、造りかえられて行くのだと思います。
その過程は、人それぞれでありましょうが・・・

神様の憐れみを利用するふてぶてしいものではありたくないと思います。
他者からの愛を要求し、他者の愛の不足に憤ることをしながら、神の憐れみを求めることなど可能でしょうか。

人間は、自らの欠けや愛の不足をどこまで理解できているのでしょうか。
どこまで自覚できているのでしょうか。

理解すること、自覚することも、神様に依らなくてはできないことなのでしょう。

神様の示される自分の欠けの状態を、素直に受け入れて
「ごめんなさい。赦してください。助けてください。」
と言える時が、悔い改めの時なのでしょう。

神の愛を要求し、人の愛を要求している限り、遠回りをしていることになるのかもしれません。
そんな私たちを、イエス・キリストなる神様は、内臓がちぎれるほどの痛みを持ってじっと見ていてくださるのではないでしょうか。

昨夜は、「憐れみ深さ」についてノートから書き写している途中で、ダウン。
寝てしまいました。

今朝は、朝祷会(7時半から9時)に出席。
ルカ15:25-37の善きサマリヤ人の例え話を、担当牧師が解き明かしてくださいました。
「憐れみ」について、昨夜のデボーションの続きのごとき時間でありました。

マラナ・タ
⑤「心の清い人とは」へ続きます。