ごきげんよう! さわこです。

バウンズはサムソンを旧約の祈りの戦士、祈りの聖徒として取り上げて、サムソンの祈りから学ぶことがあると言っている。

自分の肉の思いに負けて、生きたいように生きたサムソン。
サムソンの物語は、映画やアニメ、活劇にしたらそれは面白い題材であろう。
そんなサムソンから、積極的に学ぶことなどあるのだろうか。ましてや祈りについて!

サムソンからは失敗以外に学ぶことなどないかのごとく思っていたものだから、毎回、さらっと読み飛ばしていた。
「サムソンのいけない所はどこ?サムソンみたいなことしてもいいと思う?」と子供たちにも聞いてしまいそうだ。
 危ない、危ない(笑)
そういえば、私の分級のクラスでサムソンを取り上げたことなどはなかった(笑)

しかし、バウンズはサムソンを祈りの聖徒に加えているのだ!

今回、バウンズの解説を読んで、目からうろこだった。
何と私は善悪の先入観に囚われた不自由な目でサムソンを見ていたことだろう、と自らの罪の姿を神様から示されて反省をした。

イスラエルの民は、祈ればどんなに困難なことでも必ず神は救ってくださるということを絶えず学んでいながら、決まってそれを忘れてしまうのであった。
士師記の時代はことにそのことの繰り返しだった。サムソンも士師の一人であった。

サムソンは主の御使いのお告げによって不妊の妻であったマノア夫妻から生まれた。
その子は胎内にいる時からナジル人として神にささげられているので、ぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れたものも一切食べないように気をつけよと告げられた。
そして男の子が生まれ、主はその子を祝福された。
妊娠中から気をつけて、そして生まれてからもマノア夫妻は大事に育て良い子育てをしたことだろうと推測できる。

ところが長じたサムソンはペリシテ人の女と結婚をしようとするわ、力まかせに暴れ回るわ、遊女のもとに入り浸るわ、これが神にささげられるために生まれたナジル人かい?という困った男になってしまったのだ。

マノア夫婦の育て方が悪かったということはあり得ないだろう。
どうしてこうなっちゃったのでしょう?と言うところが両親の気持ちではないのだろうか。
聖書は、甘やかしたとか、放任主義だったとか、躾けが厳しすぎたとか、そういうことはいっさい書いていないし、マノア夫婦を譴責する場面もない。
人の目で見たなら、教育の失敗だといくらでも叱責の理由となることはあるかもしれない。

だが、サムソンがペリシテ人の女を好きになり結婚をしようとしたことについては、士師記14:4に「父母にはこれが主のご計画であり、主がペリシテ人に手がかりを求めておられることが分からなかった。当時、ペリシテ人がイスラエル人を支配していた」とあり、ペリシテ人の女と結婚をしようとすることも、神のご計画の中にあったことなのだと聖書は言うのだ。

どのような神の聖徒であっても、何らかの形で追い詰められる状態になることから免れ得ないことがある。
しかし、これらの窮地は、しばしば大いなる勝利の前触れとなるのだ。

どのような理由で窮地に追い込まれようと、その窮地がどのようなものであっても、祈りによって救い出されないといった性質のものは何ひとつとしてない。

サムソンの怪力は自分を窮地から救い出すことはできなかった。
人間は自力では救われないのだ。
自分の力には自分を救い出す力などないのだ。

サムソンは絶体絶命の窮地に追い込まれたとき、その心は祈りを持って神に向かった。
彼の人生がどんなに安定を欠いていようとも、どれだけ神から遠く離れた罪深い生き方をしていようとも、困難が襲ってきた時には、決まって神を呼ばわった。
バウンズはそれをもって、サムソンを祈りの聖徒と言っているのだ。


私の中には「おいおい、普段は神から離れた生き方をしていながら困ったときの神頼みかよ」という冷やかさと蔑視が隠れていたことに気づかされて心が刺された。

神を利用しようとする人間の狡猾さに対して、どうしても非難と批判の思いが湧いてくるのだ。

ののしられてもののしり返さず、打たれても打たれるに任せた神のしもべ(イザヤ53章)の姿をとって人類の前に現れてくださった救い主を、全人類が十字架にかけたのである。
だからと言って、神の慈愛にあぐらをかき、神の憐れみにとことん付け込もうとする輩を間近に見た時、同調することは私にとって苦しいことなのだ。

「われを救うことがあんたの務めだろうが。それで神に喜んでもらえるのだろうが。それで天国に行けるのだろうが。さあ、我に仕えよ、我に奉仕せよ、我を助けよ、我に金品を与えよ」

そういう態度で迫ってくる輩の前で、ひざまずいて仕えることができるだろうか。
神を神とも思わぬ人の前で、その人を愛しその人に仕えるという形で、神様への愛と従順を表明できるだろうか。
秩序ある世界に混乱を持ち込む者を、もろ手をあげて受け入れることができるだろうか。

私には自信が無い。私にはできない。
人の善意に付け入る人に対して、どうしても危機のセンサーが働いてしまうのだ。

「祈りの戦士の本の序言」に出てくるのだが、
ウエスレーは容易に人に騙されて、弟からは『兄は悪者の食い物になるために生まれてきたとしか思えない』とうんざりした口調で言われているのだ。
そしてバウンズには「付け込む人は誰一人としていなかった」のだ。

それで、ウエスレーが正しく立派なクリスチャンであり、バウンズはそうではないと言い切れるのだろうか。

この問題は、「後藤健二さん」の選択したクリスチャンとしての生き方につながってくることのように思うのだ。

サムソンは、自分流の生き方を通して、究極の窮地に陥った。

その時、サムソンは主に呼ばわって言った。「神よ、主よ、どうぞ、私を御心にとめてください・・・もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
そしてサムソンは宮の建物をささえている二本の柱に寄りかかり、宮の中にいたペリシテ人たちの上に崩れ落ちた。こうしてサムソンがその死をもって殺した者は、彼が生きている間に殺したものよりも多かった。
彼は父マノアの墓に葬られた。彼は20年間士師としてイスラエルを裁いた。

こうしてサムソンの物語は終わっている。

サムソンのどこが祈りの聖徒であり、祈りの戦士なのか。
自分の犯した罪はあまりにも大きいので、神様に助けを呼ぶ資格などはないとは思わなかったことである。
神は究極の罪びとの自分を救うことがお出来になるお方だと信じていることである。
だから、窮地に陥った時には、何の遠慮もなく神様を呼ばわったのである。
神を我が神、我が救い主、我が主と信じて疑わなかったことではなかったか。

サムソンの祈りの図々しさは、神を父と信じていたこと、どれほど自分の罪が大きくても贖ってくださるお方であると信じていたことではなかったか。


マラナ・タ
主よ、あなたはバウンズ師の書物を通して、私の目を開いてくださいました。
私の魂をあなたを待ち望む聖なる霊の場所へと導いてくださいました。
ありがとうございます。