ごきげんよう! さわこです

麦茶の誤飲、その直後からの咳き込みと痰のからみも今日で10日目になる。

ようやく、咳も収まりかけて痰も透明になり、回復は近いと思うのだが、讃美の会の時にだけ回復した声も、また出なくなったり、しわがれ声かすれ声だったりで、喉の痛みも続いていた。

耳鼻いんこう科でもらったお薬も朝昼晩ときちんと飲んでいる。
トローチもうがい薬もきちんと用いている。

しかし、昨日から感じることは、体力が落ちてしまったこと。
ふらふらするし、疲れやすい。
昨日の安息日も雨の中いつものようにレインコートを着て自転車を25分踏む体力も気力はない。
思いきってタクシーにした。

もっともっと、高齢になって、全く自転車に乗れなくなったら、安息日礼拝はどうなるのだろう。
安息日を教会で過ごすことができなくなるのかもしれない。
(タクシーで毎週、往復できるぐらいのお金持ちにしていただきたと願っている)

神様との交わりは、場所も時間も選ばないけれど。

安息日の9時15分からは安息日学校の交わりと聖書の学び。
私は10年以上、小学生の分級を担わせてもらっている。
小さなクリスチャンたちとの分級は、どれだけ私の霊を慰め健やかにしてくれるひと時だろうか。

11時からの安息日礼拝。兄弟姉妹方と共にあずかる。
私の隣では、私の生徒が熱心に礼拝ノートをとっている。
礼拝が終わると、その場でひざまずいて私たちは礼拝にあずかった感謝と喜びの祈りを捧げる。
メッセージの中心を短い言葉にまとめて祈る。
今日の神様のお語りくださったことを確認する祈りの時だ。

子供たちは、私から離れた椅子に座っている時にも、礼拝後には必ず飛んでやってきて「さわこさん、お祈り!」

ほんの30秒くらいの短いお祈りの時なのだが、私たちにとっては「神様ありがとうございます」の告白の祈りの貴重なひと時なのだ。

子供たちとこの祈りを始めるまでは私は一人で黙祷をしていた。
しかし、子供が礼拝ノートを自主的に取るようになってからは
(神様のお導きで、このことは神様のわざであることは明らかだ)
こうした恵みの時を神様から頂くようになった。


教会出席できなくなるとこのような安息日の交わりから遠のくことになってしまうだろう。
何と寂しくなってしまうことか・・・。

今も50年来の兄弟姉妹方の何人かは、安息日礼拝あずかれなくなっておられる。
牧師夫妻も執事さんも時々しか訪問できない。
牧師は過密スケジュールをやりくりの日々。
そして信徒たちもそれぞれの家庭があるし、健康状態もあるし、悲しいかな肉体を伴っている人間には制約がある。

しかし、どれもこれも、イエス様のご再臨と共に解決するのだ。

マラナ・タ
主イエスよ、来たりませ!
み心の天になるように地にもなさせたまえ!