ごきげんよう! さわこです

出エジプト記15章22-25節にマラの苦い水についての記述がある。
紅海(葦の海)を出てから、荒れ野を三日間進み、マラに着いたがそこの水は苦くて飲むことができなかった。そういうわけでそこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。民はモーセに向かって不平を言う。そこで、モーセは主に向って叫ぶと、主は一本の木を示された。その木を水に投げ込むと、水は甘くなったということが書かれている。

10年くらい前になるだろうか。
聖書通読をするようになってから、時々、神様は聖書から直接、語ってくださる。

ここの箇所を読んだときにも「一本の木」はイエス様だ!とすぐに気づかせてくださった。
安息日礼拝の時、ここの場面が取り上げられて「この木とはイエス様です」と牧師は語った。
私は、あらかじめ先取りして聖霊の神様から教えていただいていたので、とてもうれしかったことを覚えている。

どんな苦い状況下にあっても、イエス様がそこに来てくださったら甘くなる。
聖書の宗教は、イエス様抜きでは語れないのだとしみじみ思うのだ。

さて、私は5月2日から、ヨセフスの「ユダヤ古代誌①」(旧約時代編ⅠⅡⅢⅣ)を読んでいる。
他の本も並行しているのでゆっくりペースになっている。

ヨセフスによれば、「モーセは自分の足もとに落ちている棒切れをつまみあげて縦二つに裂き、それを井戸の中に投げ入れた」と言うのである。

聖書には「一本の木」
ヨセフスは「棒切れを縦二つに裂き」


なんという恵みだろうか!「縦二つに裂く」とは十字架のイエス様のことではないのか!

どうして、聖書にはそのように書かれていないのだろうか?
原語ではどうなっているのだろう?
そこは、また、専門家なり、ヘブル語のわかる知者識者にお任せするとして。

一本の木は、まぎれもなくイエス様だ。
二つに裂かれた木は、まぎれもなく贖罪の主、イエス様だ。

通読するようになってから、私は聖霊の神様の導きによって、旧約聖書に隠されているイエス様を見つける喜びを体験させていただいている。

だから、聖書通読を皆さんにお勧めするのだ。
とにかく、実行してごらん、試しにやってみてごらん。イエス様にお会いできるのだから。
毎日、イエス様にお会いしないままで、その日、その日を生きていける?
私は生きていけない!

それだけ、生きるってことは苦汁にまみれている!
生きることは、死ぬことに負けないくらいの大仕事だ。

さてヨセフスはこう書いている。
「モーセは自分の足もとに落ちている棒切れをつまみあげて縦二つに裂き、それを井戸の中に投げ入れた。そして確信を持ってヘブル人たちにこう説いた。神はわたしの願いを聞き入れられた。もしおまえたちが神の命令をとどこおりなく行うならば、水を思いどおりに変えてやろうと約束された、と。
そして、人々が、よい水に変えてもらうにはどうすればよいか、と尋ねると、モーセは、血気盛んな若者たちが輪になって井戸水を書き出すように命じ、水の大部分を書き出せば、底に残った水は飲めるだろうと言った。人々はすぐに作業にとりかかり、絶えず井戸の水を書き出すと、水はきれいになり、ついに飲めるようになった。」

ここで「若者たちが輪になって」から、イスラエルのフォークダンス「マイムマイム」を思い出した。
もしかして、このダンスの源はここの「マラの苦い水」のこと?
ああ、またまた、想像の翼を広げてしまう私。

ヨセフスとはどういう人物であるかというと・・・
37―100年頃のユダヤの歴史家である。66-70年にかけてのユダヤ戦争にユダヤの指揮官の一人として参戦した。敗戦と共にローマ皇帝の厚遇を受けてローマに身を移し「ユダヤ戦記」「ユダヤ古代誌」を著す。その著は多くの散逸した資料を含み、ユダヤ史、キリスト教史を知るうえで貴重な文献となった。

というわけで、一般的にヨセフスの歴史書は信用できる文献であるとされている。

マラの水を飲めるようにしてくださったのは神様、イエス様であるのは間違いないが、
“救いは、行いによるのではなく信仰によるのだから、作業をしてはならない。
それをすることは神を信じ切っていないことなのだ”
と、神様は “果報は寝て待てのごとくに仰っているのではない。

神様は水をかきだすようにと仰せになったのである。
そして、モーセの指示に従ってすぐに作業に取り掛かったのである。
この点も見逃してはならない。

何もしないことが、ゆだねることではない。
サタンは、ともすれば、熱心な働き人に「行いによって救われようとしているのか?」と批判的視線を送ることもあるのだ。

「礼拝に行かなくちゃいけない。祈祷会に出席しなくちゃいけない。ご奉仕に参加しなくちゃいけない。そういうふうに思わせてしまう雰囲気や勧告は、行いによる義と変わりないよ」とささやくのだ。

「礼拝にあずかる喜び、祈祷会に招かれた喜び、ご奉仕させていただける感謝」
それは、いずれも救われるための交換条件での行いなどではない。

それなのに、サタンは「あなたは救われようとして、しているんでしょ?結局は自分の救いのためなんでしょ?」と思わせようとすることもあるのだ。

ヘブライ10:24,25を思い出した。
「互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろはげましあいましょう。かの日がちかづいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合うではありませんか。」

愛と善行さえも「自分の救い」のために利用しているかのように思わせようとするサタンの巧妙さもある。
しかし、サタンの指摘が当たっている場合もあるから適度な自己吟味は大事だよね。
でも、自己吟味が過ぎて、自虐的になってはいけないね(笑)

だいたい日本人は真面目な民族だから、自己反省が過ぎることもある。
自己否定や自己犠牲、人を大切にすることなどが、自分を貶めたり、自分を大切にしない方向に進んだりもする。
その勘違いに酔ってしまうこともある。
どれも、わたしの通って来た道(笑)


さて、聖書を知って、その上でヨセフスを読むと面白い。

種入れぬパンの祭りの由来もヨセフスは語っている。
エジプトを脱出して三日目。到着した場所が不毛の地であったために食糧がなくなり、小麦粉をこねて軽く焼き、それをパンの代用とした。彼らはそれを食べて、30日間そこで生活をした。エジプトから持ってきた食糧はすでに使い尽くしていたからである。

「わたしたちは、そのときの食糧不足を記憶に残して伝えるために、種入れぬパンの祭りと呼ばれる祭りを現在でも毎年8日間守っている」とヨセフス。

ほかにも、心打たれる記述が続々と出てくるので、順々に紹介していきたいと思っている。

マラナ・タ
ユダヤ古代誌〈1〉旧約時代篇(1-4巻) (ちくま学芸文庫)/筑摩書房

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