ごきげんよう! さわこです。

井上先生の本をもう一冊読んだ。
2001年に講談社から刊行された「キリスト教と日本人」が改題され文庫化されたものが2014年に角川から発行されており、それである。

井上氏の講演を聞いて、彼の本を読んでみようと思い、Amazonの古本で探したら二種類あり、2001年発行は1円+送料。1円ならばとりあえず・・・(笑)と両方を注文した。

先ず、講談社新書が届き、数日遅れてソフィア文庫が届いた。

一度書いたものも13年も経つと、新しい情報や資料も手に入るし、結論を出したことも変わってくるところもあるだろうし、チャンスがあったら書き直したくなるものだろうなあと思う。

数年前から、キリスト教と日本の関係を古代にさかのぼって、いろいろな本を読んできたのだが、学術的にはほとんど評価されていない種類の本ばかりだったので、私の思考の中で、バランスをとっておきたい気持ちになっていた。

そういう意味では、井上先生の本を知ったのは実にタイムリーだった。

下は裏表紙に書かれているこの本の解説である。

「イエス・キリストの墓は青森県にある!?
由比正雪はキリシタンだった!?
近世から近代にかけて、日本ではキリスト教にまつわる多くの説が生まれては流布された。
奇想天外な妄説・珍説の数々を、当時の人々はなぜ紡ぎだしたのか。
奔放で豊かな想像力を杖にして、キリスト教受容をめぐる諸説をたどり、教科書的な歴史の影に息づく人たちの思いから、歴史が作られて行く『現場の謎』を解明。歴史の面白さを再発見できる。」


次は「まえがき」の一部である。
「・・・日本におけるキリスト教受容史の、その一局面をおいかけた本である。
・・・この本には荒唐無稽な話がいっぱい出てくる。
眉唾としか言いようのない言説、偽史の類が数多く紹介されている。
・・・日本では、キリスト教がさまざまな珍説奇説を派生させてきた。
青森にあるキリストの墓だけではない。
突拍子もない事象や妄説はたくさんある。
そして、私はそういうところに、日本的なキリスト教受容の特徴を感じる。
この宗教を受け入れた日本社会の反応が見て取れる。
そこへ、光をあてれば、日本社会の姿が陰画の形でとらえられはしまいか。
・・・日本社会はキリスト教にどのような反応をしめしてきたのか、その機微をうかがおうとする読み物であって、キリスト教そのものを探ろうとしているわけではない。
私がとらえようとしているのは、あくまでも日本社会のほうなのである。・・・」


キリスト教嫌いだった私が、聖書の通信講座を学んでいる最中に、一つの御言葉に(コリント人への手紙第一10章13節)捉えられてしまった。

イエス・キリスト様に出会ってしまった瞬間だった。私は瞬時に掬い上げられて、夜中の台所のテーブルで、ただただ泣き続けた。
私の理屈、反論、反発心、それらが一瞬で氷解されてしまった。

人は何故生きるのか、何のために生きているのかといった少女時代の疑問は大人になると、娘時代をはるかに凌駕する疑問へと発展し、大きな重荷を抱えてしまったためにさらに本質的なことに思いを巡らすようになった。

キリスト様の御腕に抱きとめられたとき、私はそれで十分だと思った。

聖書の御言葉は、イエス様ご自身であるという事実の壮大さ、力強さ。
善き導き手を得て聖書を学べば、神学や教理が100%理解できなくても、神様に捕えられ、神様ものになる。神様のもとに帰って来られるということが分かった。

それだから、聖書を学ぶことを身近な人たちに勧めてきたのだが、同じ通信講座を学んだ人がキリストをすぐに信じるわけではない、ということも知った。

私は一つの御言葉の招きに即答したのだったが、どうやら、私は例外的だったのかもしれない。
人はそれぞれ、固有の存在なのだ。みんな違うのだ。

日本ではキリスト者が1%であると聞いている。
これだけ沢山の、何種類もの訳の聖書がそろっているにもかかわらず、キリスト者の人口がいつまでたっても増えない。
キリスト教に好意をいだきながら、信者となることに躊躇する理由はなんだろう・・・
それが、日本人とキリスト教の関係に興味を持つ理由だった。


井上氏の本を通して、日本社会、日本人を、探っていくと、仏教とキリスト教と神道の類似点、共通点の故に、基を同じものとする宗教だという考え方が江戸時代の学者たちがすでに持っていたことがわかった。
キリスト教から仏教が生まれたという説。仏教からキリスト教が生まれたという説。
聖書の神と神道の神は同じだと言う説。これらの説はすでに江戸時代の学者たちによって研究されていたのだとわかった。

何と不思議なこと!
禁教の時代に、邪教と言われていた時代に、聖書の、キリスト教の教えが日本の中で、仏教、神道と照らし合わせながら、検証されていたなんて!

だから、今の時代も多くの日本人たちが言うのですよ!
どの宗教を信じたって同じだよね。
神様は一つだからね。
富士山に登る道は、一つじゃないからね。
仏教の道、儒教の道、神道の道、キリスト教の道、あれこれ・・・とね。

創造主、道徳律、に関しては、仏教も神道もユダヤ教もキリスト教も共通項はあるんです。

しかし、神様が教えておられることは、それだけではないのね。
それだけでないことに、目を向ける。魂を向ける。
そうしていくことで、私の個人的な問題としてのキリスト様を信じる信仰へと歩み始める。

神様を天地創造と道徳律だけで見ているなら、キリストの必要性にまでつながらないのでしょうね。


マラナ・タ
魂をキリスト様にむかって注ぎだす。
わが魂を明け渡す。
キリストなる神様の招きに、こうして応答しないではいられないように導かれて行くのです。