ごきげんよう! さわこです。

「キリスト教と日本人」
講談社現代新書より2001年5月20日発行の本である。著者は井上章一氏。
この方は1955年生まれ。京都大学の工学部建築学科を卒業された建築史、風俗史を専門とされている学者さんである。現在は国際日本文化研究センター教授をしておられる。

せんだって、この先生の講演を聞く機会があり、本も何冊か書いておられると知って、この本を古本で手に入れて読んだ。

読みたい本が次々とあるので、一日で一気に速読?であるが、面白かった。
主要参考文献が42冊であるから、主要以外の文献も加えたらどれほどになるのだろうか。
本を著す方は、一冊の本を仕上げるにあたり、長い歳月と多くの文献を調べて勉強をしておられるのだなあと、当たり前のことであるけれど、あらためて感服、敬服したのでした。

内容は、
由比正雪も大塩平八郎もキリシタン?
仏教はキリスト教起源かその逆か?
歴史に投影された珍説奇説を通して描く、受容の精神史。
と表紙には内容のアウトラインが記されている。

そこを読んだだけで、わあ!楽しみ!とワクワクだ。

著者は中学高校と6年間カトリック系のミッションスクールに通われた。
そのおかげでキリスト教についての知識を人並み以上にしいれることができたというのだが、信仰心は全く芽生えず、聖書も信じられないと言う。

それでも、キリスト教についての知的好奇心はずっと保たれ続けて、しかし、あいかわらず宗教的な共感は起こらず、知識欲だけが膨らむばかりであるそうだ。

この本についても、「信仰なき好事家ならではのしあがりになっていると思う。中高6年間にわたるキリスト教との出会いが、こういう形で実を結んだということか」と、また「信仰をもたない人々が、キリスト教をどう受容してきたか。そこを問うためにこの本は書かれたので、キリスト教学の研究者からは評価されないような気がするが、著者としては文化史研究としての到達感がないではない」とあとがきに書いておられた。

私は数年前から、キリスト教と日本古代史に関する本を読みふけってきていたのだが、そうか「珍説、奇説」の類の知識なのか(笑)と楽しめた本だった。

江戸期の学者たちは、仏教とキリスト教が一続きになっている(仏教・キリスト教同根説)と考えた。
どちらをルーツと位置づけるかは、立場によってちがっている。しかし、とにかく片方をもう一方の派生宗教として、把握していたのである。
のちには、その両者を分離して考える傾向が強くなる。
仏教を外来宗教ではなく、日本固有の宗教として見直す傾向も強くなる。

私の知らない江戸時代の知者識者の、仏教とキリスト教の宗教観も書かれていたのだが、先ずは私にとって聞き覚えのある人物の説だけを書き出してみました。

久米邦武は、30代前半に岩倉具視を代表とする明治政府が組織した外交使節団の一員として、欧米諸国を訪れている。
彼は日本の神と西洋のゴッドを同一のものとして眺めようとした。
西洋人たちは、日本にはキリスト信仰が無いからと言って遅れているように見ているが、天を仰ぐという日本の宗教も十分にキリスト教的なのだ。
聖徳太子誕生伝承からも、キリスト教の「厩戸伝承と受胎告知」の話は、古代日本にたどり着いていたことがうかがえる。
日本文化史上に、キリスト教的な要素のあったことを見落とすべきではない。
日本と西洋の文化は、たがいに共通し合う部分からながめたい。それぞれの固有性ではなく、普遍的に分かちあえるところから、さぐっていこう。岩倉使節の一員として二年間を欧米ですごした久米には、そんな精神がはぐくまれていた、と井上氏は見ている。

由比正雪はキリシタンだったか―
反乱者はキリシタンだとする先入観があったために、1651年江戸幕府への叛乱を引き起こした正雪にキリシタンのイメージが投影されていたに過ぎない。

③江戸後期の画家、司馬江漢は、仏教はキリスト教から派生してできたと考えていた。仏教の起源はキリスト教にある。仏教はキリスト教に通じ合う。キリスト教の神は、まったく空無の状態から宇宙を創造した。これは、一切が空であるという「禅宗の悟り」と「同じこと」である。キリスト教を邪教とするなら、そこから派生した仏教も邪教となってしまう、それでもいいのか困るだろう。だから、キリスト教の邪教視は、もうやめにしないか・・・。

④18世紀末の蘭学通の経世家の本田利明は、キリスト教を仏教や儒教のルーツとして位置付けていた。

本田利明と司馬江漢は、いずれも江戸時代の知識人だが、仏教をキリスト教の後発の宗教と決めつけている。ブッタの方がずっと古いのだが、後で成立したキリスト教を先駆者だと書ききった筆の勢いに考えこまされる、と井上氏は書いている。

(私はこう考える。小乗仏教のあとからできた大乗仏教。旧約聖書からはじまる聖書の教えが土台となったキリスト教。イエス・キリストが地上に生誕される前に、すでに書かれていたキリストの初臨を預言した聖書。総合的に考えたなら、納得できるのだけれど・・・)

平田篤胤1776年-1843年、江戸時代後期の国学者・神道家・思想家・医者。
篤胤は、天之御中主アメノミナカノヌシを、創造神としてえがき、三位一体の神観念も持っていて、大変キリスト教的な神学構想を、日本神話に対していだいていた。


マラナ・タ

クリスチャンが、聖書と信仰の書物以外の書に関心を持ち、やたら読むことを批判的にとらえられることもある。
知識をひけらかす思慮の足りない人と見られることもある。
知識が増えすぎると、高慢になっていくいくと危惧されたりもする。
そういうふうに考える考え方もわからなくはない。

そのように批判されたとしても、私自身の徳の低さが招くのかもしれないから、まあ、しかたないか、と思うことにしている。

しかし、「キリスト信仰を持ってはいませんが・・・」との前置きで書かれているこの方の本からもいくつかの良きヒントを得られた。
日本人が、キリスト教をどのように見てきたのか、禁教であった江戸時代からの知者識者たちが、真実の神様を求めて学問の世界の中でさぐってきた歴史の一端を、井上氏によって垣間見させていただいた。


キリスト教を知ってはいるが、信仰しようとは思わない。
キリスト教に好意は持つけれども、神を必要とはしない。
そのような好人物の隣人に私たちは囲まれているではないか。
そうした人たちの魂に近づくには、キリスト教と日本人であることに関する知識の引き出しはいくつ持っていても多すぎることはないと思う。
 
聖書とその解説書では、知り得ない知識であり、この知識を神様の栄光のために役立たせてくださいと祈りました。