ごきげんよう!さわこです

この言葉は、フランス語だという。もともとはフランスの格言である。
社会的に地位の高い人や、能力のある者は、それに応じた社会的責任と義務があるという道徳観念をいう。
高き身分のものが負うべき義務であります。

「ノーブレス・オブリージュ」この言葉を始めて知ったのは、新渡戸稲造の「武士道」だった。
新渡戸稲造氏が五千円札の肖像画になった時のことだったから、もうどのくらい前になるのだろうか
この著名な人を知らなかったということに恥じて読んだのであった。
「武士道」は約百年前の世界的ベストセラーである。
支配階級に属する者の義務や責任について述べるにあたり「ノーブレス・オブリージュ」と「武士道」を類似した概念として見ているのだ。

次に、「ノーブレス・オブリージュ」に出会ったのは、白洲次郎氏に関する本を読んでいた時だった。
私は若い頃、能に少しばかり関心があったので、奥方の白洲正子さんは知っていたけれど、次郎氏を知ったのはずっと後だった。
なぜ、能に関心を持ったのかと言えば、謡曲を習っていた両親に連れられて「能と狂言」を観たことがきっかけだった。
中学一年生くらいだったかと思う。弟はまだ小学生だった。
本物を鑑賞するということは、子供にとって刺激的なことだ。
私の精神世界が刺激を受けたのだった。
大学生になって歌舞伎も何度か見たのだが、能・狂言を始めてみた時ほどのあのピーンと迫ってくる透明感のある快感が味わえなかった。
きっと能の鑑賞は、私の感性にとって一番いいタイミングだったのだろう。

さて、その次に「ノーブレス・オブリージュ」という言葉が用いられていたのは、台湾の李登輝元総督の本であった。「武士道解題・ノーブレス・オブリージュ」という書物であった。

夫の友A氏と時々、本談義に花が咲くのだが、彼から「僕は李登輝を尊敬していてね、一番会いたい人なんだ」との話を聞いたことがきっかけだった。
それでは、夫の名誉のために(笑)李登輝氏の本も読んでおかねばと思い立ったわけである。
その時、彼が会いたかった人としてキング牧師の名前も出たので、彼の本を持っていると言ったら、貸してくれということになった。
こんなふうに、傾向の違う本好きな人との会話や本の貸し借りを通して私の本の世界は広がっていく。
さて、そういうわけで、世界の超一流の人物たちが指針とする「ノーブレス・オブリージュ」という精神が、私の記憶の端にしっかり残ったのであった。

話が脱線して、前置きがいささか長くなってしまったが、これからが本論です。


先だって、教会で敬愛する信仰の先輩が、主の祈り「我らに負い目あるものを、我らがゆるすごとく、我らの負い目をもゆるしたまえ」についてこう話してくださった。

「私たちは、自分に負い目のある人を許す義務があるんです。
この負い目は罪とも訳されていますけれど、私に対して罪を犯した人には、私自身が負い目を持つことにもなるわけです。罪を犯した人ではなく、罪を犯された側が負い目を持つということです」


あまりに複雑な解説に、わけわからん・・・頭の中が混乱気味(笑)

そのとき、彼女の説明は「ノーブレス・オブリージュ」なんだ!とひらめいた。
この言葉をキーワードにしたら、私の頭脳にとって難解である彼女の説明がすんなりと解けるではないか。

私たちクリスチャンはイエス様の十字架の贖いによって、神の子と呼ばれるようになった。
つまりクリスチャンは世の中の貴族どころではない。天国の住人。神の王子、王女としての身分と地位を得ているのだ。
高貴なものには、その立場にふさわしい責任と義務がある。

私たちには、自分に負い目のある人を許す義務があるんです」という説明と符牒するではないか!

赦す義務とは赦す特権とも表現できるかもしれない

人生には不運がつきまといます。
誰しも明日のことはわからないのですから、人生は不公平であるということを否定することは誰にも出来ないのです。
いつ自分も事故や病気にあって寝たきりになるかもしれない。事業に失敗するかもしれない。
人の不幸や不運を、明日の自分自身の姿かもしれないと考える想像力を持つのです。

確かに努力したかもしれないが、自分が恵まれているのは「たまたまの偶然」であり「たまたまの幸運」であるに過ぎないという気持ちを持つならば、神谷美恵子さんの「らいの人に」の詩のように、「なぜ、私でなく、あなた方が?あなた方は私に代わってくださったのだ」という心で不幸の極地にある人を慮ることができるのではないでしょうか。

ローマ人への手紙15:1,2には
「私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばすべきではありません。私たちはひとりひとり隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです」とパウロは書いています。

「力ある者」を身分や地位や財力etc. というだけでなく、「たまたま力ある者」という立場におらせていただいているに過ぎない小さな者である自分、と自覚するならば、「力のない人たち」の弱さに心を寄せることが自然体でできるのではないでしょうか。


聖書は「受けるより与える方が幸いである」と言っています。

「受けること」「与えること」が社会の中で循環していく。
そうして、助け合い、分かち合い、ひいては共存繁栄になっていくのではないのでしょうか。



クリスチャンになるとは、神の子としての高き身分を頂くことであります。
この世では、たとえ貧しくても、人に蔑まれても、「神様の目にあなたは貴い」と言われる存在であることを享受する者となるのです。

金銭や能力で、社会的な貢献や責任を果たすことができないかもしれないけれど、「我らに負い目あるものを赦す」力を神が注いでくださいますので、「人を赦す」義務・責任を行使できるのです。

主の祈りの中で、一番難解なのが「我らに負い目あるものを我らがゆるすごとく」であると、ほとんどの人が言いますが、赦すことは自力でできるものではありません。

神に赦されて、神に愛されて、生かしていただいている小さな私を意識できたときに、神の恵みが流れ込んできて、赦しの精神の実が結ばれるのではないでしょうか。

クリスチャンは「ノーブレス・オブリージュ」なるものを実践できるものとして頂くために、毎日「主の祈り」を祈るのかもしれません。


マラナ・タ

♪十字架の血潮もて われさえ あがない
神の子としたもう 恵みの主をほめん
あーあ 主は 十字架にかかりて
我を 救いたもう 恵みの主をほめん♪