ごきげんよう! さわこです

ブレイン・スミスの「神のみこころを知るために」を信仰の友が貸してくれた。
タイトルに飛びつきました。
クリスチャンたちは「みこころ」というフレーズが好きです。
「みこころのなりますように」とお祈りの最後には言わないではいられませんよね。

自分の、切なる願いを訴えながら、これってわがままではないかしら?
自分の都合ばかりお願いしているんじゃないかしら?って思い始めると、
自分の祈りが汚れているように思ったりしますものね。

児童伝道に携わるグループが毎週木曜日の午前中に
安息日学校ガイドのテキストを用いて聖書研究をしています。
そのあと、ミーティング、教会のお掃除。
昼食(弁当持参)。
午後からは教会祈祷会。
体力と時間が許す限りは、一日教会で過ごしています。
家族の理解もありまして感謝です。

そのときに、一人の人が
「明日はお天気にしてくださいって祈るけど、明日は雨が降ってほしいと祈っている人もいるわけで、神様は真反対の願いを祈られてお困りでしょうねえ」

そこで・・
「私ね、明日が教会の大切な行事の日であっても、お天気にしてくださいとは祈らなくなって久しくなるわ。明日は○○ですから、お天気だとそれはうれしいですけれど、神様のみこころのままになさってくださいって。あなたが言うように、雨を待っている人もいるわけで、そのことを思うとね・・・単純に祈れなくなってきたのよ。」
と数年来の気持ちを打ち明けました。

私の祈りは、神様を讃美し、感謝し、配慮が足りなかったばかりに、人を悲しくさせたりいらだたせたりしてしまったことへの悔いる苦しい気持ちを申し上げて、互いに神様からの慰めを頂きたいと願う祈り、執り成しの祈りを捧げ、個人的な切なる状況を神様に相談し、そして聖書の通読箇所から祈りの言葉を与えていただきます。

どうすべきか、どちらを選ぶべきか、迷うこと、悩むことありますよね。
神様の御目に良い方を選ぶことができますように、と神様の導きを祈るのです。
家庭の用事か、教会の用事か。
家庭のことは、その日でなければならないのか、教会は人手が足りているのかいないのか、そうした客観的な現状を見極めさせてくださいと祈って、夫の本心はどこにあるのかと推し量りながら、迷いながら、心を痛めながら、選び取るわけです。

この本は、自分のそうした信仰生活を、これでよかったのか、どこを間違えていたのか、確認と自省に役立ちました。

特に役立ったところは「理性的確信」「論理的考察」「知性」の大切さです。

本の内容については「神のみこころについて その2」に続きます。

マラナ・タ
いつも私の霊性に必要な本を、主はこの友を通して与えてくださいます。
ありがとうございます。