ごきげんよう! さわこです

もう上着もいらない季節になりました。
母のブラウスとネックレスをつけて、自転車に乗って7時に出発。
月に二回の超教派の朝祷会です。
おしゃれだった母は、私に(一人娘でしたから)着物や洋服やアクセサリーをたくさん残してくれました。
その中から自分に似合いそうなものばかり選んで手元に残して、後は従姉たちに(笑)
母の愛用していたものを身にまとうと、愛されて育った私だったなあ・・・と感無量。


今日はマタイによる福音書25章14-19節からのメッセージを頂きました。
有名なタラントンの譬えの箇所です。

「ここは与えられた賜物を用いましょう、と読んでそれだけで済ましてはいませんか?
あるいはこう生きるべき理想が示されているだけなのでしょうか?」
という問いかけのあと、「今朝はここに福音が示されていることに目を留めて読み直してみましょう」とメッセンジャーの牧師。

「1タラントンとは、20年分の年収に当たります。
1タラントン、2タラントン、5タラントン預かった僕は、それをどう用いるかがゆだねられているのです。」


私はその昔、初めてここを読んだときには、「1タラントンしかもらえないなんて可哀想、主人は不公平だ、やる気をなくしたってあたりまえだよね」と思ったのでした。
ところが1タラントンの価値を知った時、「いったいなんなのだ、この僕は?ほかの人がたくさんもらったとか、そんなことに文句を言うよりも、1タラントンも預けられたことをうれしく思わないのかなあ」とかわいそうだという思いが消えて行きました。
そして、同情心とともに先入観も消えてしまって神様のみこころを探る読み方ができるようになったのでした。


「1タラントンもらった僕は、どうして土の中に埋めたのでしょうか?イエス様の時代は土の中に埋めることは、安全な管理方法であり、もし、盗まれても罪に問われないのでした」


へえー、そうなんだ。やけくそになって、土に埋めておいたわけではなかったのだ。
この時代の最も安全な賢い管理方法だったのか。
1タラントンもらった僕が働くことができない状況にあったのなら、この方法は素晴らしいではないのか、とも私は思ったのでした。


「さて、どうして主人は怒ったのでしょうか?
その答えは24節25節にあります。『ご主人様、あなたは蒔かないところから刈り取り、散らさないところからかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました』僕は主人を、タラントンを減らさないことを期待している、失敗を決して許さない、そういう主人だと考えていたことがわかります。主人の思いと、僕の思いは違っていたのでした。15節の『それぞれの力に応じて…預けた』というところに注目してみましょう。主人は不公平なのではなく、僕のことをよく知っていることがわかります。そして、そこに主人の僕たちへの期待する心が読み取れないでしょうか。」

「タラントンはタレント(才能)の語源であると言われますが、それ以上の意味を考えてみましょう。私たちのこの世の中には格差があります。人生の歩みには違いがあります。自分ばかりが大変な人生を歩んでいるかのように思うこともあります。人生が不公平であるからと言って、神様は不公平なお方なのでしょうか?“神様は私たちの力に応じて”タラントンを託してくださるのです。『この人は必ず、歩める!』と神様は期待してくださっているのです。『私が私の人生を歩む』からこそ与えられる出会いの恵みがあるはずです。」


今日、牧師は「それぞれの力に応じて」と言うところに、神様のみこころの光を当てて語ってくださいました。


確かに、与えられた重荷が重すぎてつぶされてしまいそうなときもある。
もうお手上げだと逃げ出したくなる時もある。
自分の不運を呪ったまま死を選びたくなる時もある。

戦時中を生きた人、経済の高度成長期やバブルの時代に生きた人、景気の低迷する時代に生きている人、どんな人であれ仕事にありつける時代に生きた人、働きたくても仕事のない時代に生きている人・・・終末の時代には絶望感を持つ人が増えてきます。


「でも大丈夫だよ。私はそれぞれの力に応じた重荷しか負わしていない。もう負いきれない!とあなたは思うだろうか?でも大丈夫だ!イエス・キリストという逃れの道を私はあなたのために備えているのだよ」

そういう父なる神様の声が聞こえてきたようでした。


私はこのタラントンの譬えが24章に続いて記されていることに注目したいと思いました。
新共同訳聖書には小見出しがあって各章のテーマがついています。

24章は「終末の徴」「大きな苦難を予告する」「人の子が来る(再臨)」「目を覚ましていなさい」「忠実なしもべと悪いしもべ」

25章は「10人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ、そして「すべての民族を裁く」とあります。


私は、タラントンのたとえも、この流れの中で読みたいと思うのです。
小見出しが分かりやすく示しています。新共同訳にはそういう親切な点があります!

私たちは今どこにいるのか。今はどのような時代なのか。
① 今は終末の徴がそこここに現れている時代だ。
② 大きな苦難が来ると神様は聖書を通して予告しておられる
③ しかし、それはご再臨が近いと言うしるし

このような時代にあって、私たちはどうして生きたらよいのか。
④ ご再臨のその時は誰も知らない、天使たちも知らない、父だけが知っている。だから、目を覚ましていなさい。あなたは目を覚ましているか?
⑤ あなたは忠実な僕であるか?悪い僕であるか?今の自分がどちらに立っているのか自覚を促しています
⑥ あなたは賢い5人のおとめか?愚かな5人のおとめか?この10人のおとめはみんな眠ってしまった。目を覚ますようにとあれほど忠告したのにね。にもかかわらず5人は賢いおとめと呼ばれている。その違いは何か?ともし火のための油を用意していたからだ。油とは聖霊のこと。
⑦ そして、タラントンのたとえとなります。

それから天地創造なさった神様は最後にはどうなさるのでしょうか。
⑧すべての民族が裁かれるのです。

「10人のおとめ」と「タラントン」のたとえは、どちらもこのような書き出しで始まっています。「天の国は次のようにたとえられる」と。

つまり、天国に入れる人の条件をたとえのかたちでお話しくださっているのです。

10人のおとめの譬えでは「聖霊を満たし続けること」の重要性を訴えています。

タラントンの譬えでは「神様の本質を誤解していること」は永遠の命を失うほどの危険なのだよとイエス様は忠告してくださっていると思うのです。


朝祷会の醍醐味は、その朝いただいたメッセージをきっかけにして、神様の私に語り掛けてくださることをさらに深めることができると言うことです。

「それぞれ力に応じて」というメッセージに励ましをいただきましたが、神様を正しく知るということの重要さをさらに思ったのでした。


神様は「蒔かない所から刈り取るお方でも、散らさない所からかき集められる恐ろしく厳しいお方ではなく、それぞれの力に応じてタラントンを預けてくださるお方である」ということです。

私たち一人一人の能力も状況もすべてをご存知で、しかも、無条件でタラントンを預けてくださるのです。

サタンによって、人間は神様を誤解させられてしまいました。イエス様の時代にも神様を誤解して、間違えたメッセージ伝える律法学者、祭司、ファリサイ派、サドカイ派の人々がいました。


真実の神様像から離れていくと、神様のみこころが見えなくなります。
聖書の読み方も勘違いしてピントがずれてきます。
それは、単なる解釈の違いよね~と笑って済ませられることではありません。

永遠の命か、永遠の滅びか、どちらかひとつであって、その中間はないのです。

マラナ・タ
今朝も朝祷会に招いてくださった神様に感謝と讃美をおささげします。