ごきげんよう! さわこです

今朝は朝祷会の日。空模様が怪しい。
自転車のかごにレインコートを入れて出かけようとすると、雨が、パラパラ・・・急いでカッパを着て、自転車に乗ったが、次第に雨脚は強くなってくる。
道中のは全部散ってしまって、の木々は緑の若葉で覆われている。
そろそろ新緑の季節の到来だ。

今日のメッセージは、アメリカ人の宣教師さん。日本で育ったので流暢な日本語でお話をなさる。

ヨハネによる福音書14章の3節「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻ってきて、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしにいるところにあなたがたもいることになる。」から、神様の本来の願いは何であったか、神様の最後の願いは何であったかがテーマであった。

このことについては、私がいつも考えていることで、冥想に冥想を続けているテーマである。
私の担当する子供のクラスの分級でも、行き着くところはいつもここだ。
聖書はここを中心にドカッと置いて読まなくては、迷走してしまうこともある。


引用聖句とともに、メッセージの要約を以下に・・・

神様の思いはどこにあるか?

・ 人間は自由意思を持っているから、神の思いに従いたいと思っても一筋縄にはいかないものである。

  では、神の本来の願いは何か?

・創世記3:8より「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた・・・」エデンの園では風の吹くころ、アダムと散歩をして一緒に過ごすことが神様の日課であった。

・ 出エジプト記33:11より「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた・・・」

・ イザヤ7:14「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子産み、その名をインマニエルと呼ぶ」

・ 旧約聖書にイエス名前が出てくる。インマヌエル共におられると。それが神の約束であった。

・結論:神様は人と一緒にいることが一番の願いである。神と人類との関係は「一緒にいること」であった。
神は元のその状態に復帰させようとしている。


・ 主の祈りとは?主が弟子たちに与えた祈りである。ヨハネ17章こそがイエスの祈りである。

・ ヨハネ15:5「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしのその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」イエス様は私に留まりなさい、私につながりなさい、そうすれば実を結ぶと言われた。

・ 詩編66:18「わたしが心に悪事を見ているなら、主は聞いてくださらないでしょう」とある。心に悪事、心に不義、つまり罪があるならば、聞き入れてくださらないと神は言っている。

でも、大丈夫なのだ、なぜならば

・ ヨハネ第一1:9「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」

罪を公に言い表すとは、告白すること=ギリシャ語の原語では、神に同意するという意味

・ イエスは十字架で私たちの罪を赦された。しかし、人の気持ちはもやもやがある。
告白したのに、赦されたのに、肉なるものは感情や気持ちに影響されるやっかいな存在だ。

神の最後の願いとは何か

・ テサロニケ第一4:17「それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」

結論:神はいつまでも人間と共に居りたい。


創世記3:8を引用されたときに、私の思ったこと

犬を飼っている人なら、誰でもそうであろうが、我が家でも主(あるじ)は愛犬と決まった時間(風の吹くころ)散歩に出る。
愛犬はその時間が楽しみである。主人もそうである。
時々、私もついていくのだが、「おかあさんも、今日は一緒なの?ヤッター!」犬のうれしい気持ちがぐんぐん伝わってくる。

このようにたとえてみれば、エデンの園での神様とアダムとの喜びの時間の交歓が、我がこととして身近に伝わってくるではないか。



マラナ・タ

月に二回、朝7時半からの超教派の祈祷会。
県内の教会の牧師さん方が交代でメッセージをくださる。

所属する教会は違えども、キリストにあって一つの体なのだ。
福音を伝えるために、それぞれ召し出されている同志なのだと思う。

みことばによって養われて、キリストの御霊の力を受けて祈り合う。