ごきげんよう! さわこです

久保有政さんの「日本とユダヤ 聖徳太子の謎」を一昨日読み終えました。

古代日本とイスラエルの関係に興味をもって、何年にもなるのですが、今まで、何冊もの本を読んできました。
そもそもは、ケン・ジョセフ・シニア・ジュニアさんの本がきっかけ。
その後、ラビ・トケイヤーさん、久保有政さん、飛鳥昭雄さん、三神たけるさん、と次々読み進め・・・
今回読んだ本は2014年11月11日第一刷発行 1600円+税

今回の本によって、雑然と頭の中に入っていた今までの知識が、整理されて行きました。
教科書に載っていた聖徳太子像とは違うのですよね。

まず、聖徳太子は仏教徒ではなかった!
法隆寺は聖徳太子が建てたのではなかった!


久保有政氏は多くの文献をもとに聖徳太子の実像に迫っています。

今まで教えられてきたことこそ、真実だと思っている人々にとっては、こういう本はとんでもない本のように思えて受け入れ難いのかもしれません。

以前に「日本に聖書の思想が入ってきたのは、1549年のザビエルよりももっと古いのよ」「失われたイスラエルの十部族はシルクロードを通って日本に到着したのよ」などと話したらハイソサエティな女性から、「ロマンがあって楽しいわね」と笑われたこともありました。

教科書で教わったことと、余りにもかけ離れたことを聞くと、胡散臭く思われるのでしょうかね?それを信じているの?って変人扱いされることもあるのでしょうかね?

しかし、私は、こういった説を、従来の説よりも信用しているのですわ。

日本の神社とイスラエルの幕屋の構造が似ていると、赤い鳥居は、過越しの戸口の柱と鴨居に塗った小羊の血の名残だと、クリスチャンになって間もなくの頃(25年も前になりますよ)聞いたのでした。

その時の、強烈な衝撃は忘れられません。
なぜ?なぜ?
古代日本とイスラエルは何かつながってるの? 
日ユ同祖論なんて全く知らなかったのだけれど、その時から、私のアンテナは張り巡らされるようになったのでした。

キリスト教はイスラエルの宗教から生まれています。

アッシリヤに連れ去られたイスラエルの十部族の行方について、イスラエル十支族調査団体「アミシャーブ」が三度も日本にやってきて調査していることを知ると、荒唐無稽の胡散臭い話とも思えないではありませんか。

聖徳太子の信じていた宗教は、日本古来の神道であったこと。

そしてそれは、今の多くの日本人が思い込んでいるような八百万の神々ではないのです。
いったいいつから、日本の神道は多神教と呼ばれるようになったのかしらね?
「唯一神の神道」であったのです。

古代イスラエルの宗教=古代日本の神道!

神社の構造、きよさや穢れの観念、供え物、神官の服装、祭りetc・・・多くのものがよく似ています。
しかも、その神道は、古代日本に渡来したイスラエル人たちによるものであった!

その神道をつかさどっていたのは、渡来人である物部氏、中臣氏、忌部(いんべ)氏。
彼らは古代イスラエルの流れをくむ人々だったのです。
ほらほら、聞き覚えのある名前!社会の教科書に載っていましたね!

彼らがいつ日本に渡来したのかは定かではありませんが、紀元前の時代にはすでに渡来していたのです。
日本列島で人類は発生していないので、古代日本人は皆、渡来人。

中国、朝鮮半島経由で大陸から来た人々と、黒潮に乗って海から来た人々がいるって、こういう話も聞いていますね。

物部氏が蘇我氏に滅ぼされて日本の古い歴史の資料が燃やされてしまった・・・という話、子供の頃に聞いていましたよ。

さて、聖徳太子の時代になると、古代イスラエル的な唯一神宗教である神道に古代東方キリスト教の要素が加わった神道
になっていきました。

中央アジア、弓月国にいた秦氏は、古代東方キリスト教に改宗して、キリスト教徒のイスラエル人として日本に渡来したのです。(原始キリスト教のエルサレム教団ではない)

その秦氏の中に、聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝がいます。

>神道の「造化三神」の教えは、キリスト教の「三位一体」信仰からきたものです。

聖徳太子の時代に、「景教徒」もやってきた!

景教徒は、ネストリウス派キリスト教徒と呼ばれた人たちです。
彼らは、秦氏同様、東方キリスト教の一派でありますが、秦氏とは別のルートでキリスト教を信じた人たちでした。

景教は、中国では唐の時代に大いに栄えました。
また景教徒たちの伝道の特徴は福祉、慈善、医療、学芸の普及と共にキリストの福音を伝えたのです。

聖徳太子は東アジアで初めて「四箇院」(しかいん)と呼ばれる学芸、医療、慈善、福祉の施設を作りましたが、それは景教徒の事業を見習ったものであります。

当時の仏教は、為政者たちのための者でありましたから、庶民のための仏教ではなかったのです。

遺伝子の研究によれば、聖徳太子はイスラエル十支族のエフライム族の子孫であるといわれています。

エフライム族のY染色体は聖徳太子(聖徳太子は天皇の息子、母は蘇我氏)に続いています。
息子は父からY染色体を、母からX染色体をもらうので、父がどんな女性と結婚しようと、息子の染色体は、父方=男系の遺伝子のみを受け継いでいるのです。

和をもって貴しとなす!

聖徳太子は唯一神の神道に立っていましたが、政治的には儒教、仏教、神道との融和を図ったのです。


そもそも、法隆寺は仏教の寺ではなかった!

太子が建てたのは、法隆寺の前身とされる「斑鳩寺」(いかるがでら)という学問寺であり、その隣りに太子の住居、斑鳩宮がありましたが、蘇我氏によって、そこで太子は暗殺され、太子の一族も死に追い込まれたのでした。

無実の人が殺され、無念の中に死んでいくとき、当時の人々は祟りを恐れました。
怨霊となって出るに違いないとおそれたのでした。
そういう場合は祟りを封じ込めるために必ず、神社や寺を建てるのです。
法隆寺は、聖徳太子とその一族の虐殺現場に建てられた寺だったのです。


太子を祀り上げ、太子の虚像を作り出すためには、寺を造るだけでなく、太子に関する真実の記録も残しておいてはなりません。
そこで、蘇我蝦夷(そがのえみし)は645年朝廷図書館に火を放ったのでした。
太子の著作である天皇記(すめらみことのふみ)、国記(くにつふみ)はやかれてしまったのでした。
それから、太子に関するさまざまは作り話がつくられ、歴史の改ざんが始まったのです。
(続く)


マラナ・タ

今夜はもう疲れました。
安息日に入っています。
おやすみなさい。


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