ごきげんよう! さわこです。

「風渡る読後感」
葉室麟「風渡る」は、戦国時代に到来したキリスト教とそれを受け入れたキリシタン大名たち、特にキリシタンとしての黒田官兵衛を描いています。

官兵衛は激動の戦国時代、信長、秀吉、家康という傑出した人々と共にに生き、知略を持って秀吉の軍師として活躍しました。

官兵衛が洗礼を受けたのはフロイスの「日本史」によれば1585年(天正12―13年)。
官兵衛がキリシタンになったのは、通説では、高山右近や蒲生氏郷、小西行長らの影響によるとされています。

優れた武将であり、また一流の教養人であった右近や氏郷、彼らとの交流の中で洗礼の決心にまで導かれるということは十分にありうることです。

私たちだって、何故クリスチャンになりましたか、と聞かれたら、尊敬に値するどなたかの名前が必ず出てきますから。

しかし、この本では、それ以前からキリシタンの教えに心を寄せていたとして書かれています。

キリスト教会が建ち、キリスト教も新しい文化として信長の政権下で広がっていき、宣教師たち外国人が行き交う当時の日本社会が浮き上がってくるのです。

和歌をたしなみ物事を深く考える官兵衛を思えば、キリストの教えにひかれていく可能性は十分にあります。

その後の時代にキリスト教が広まったのは明治維新後、第二次世界大戦直後。
動乱の時代には、今までの価値観が揺らぎ始め、人々は真実を真理を求める思いが強くなります。
明治になって武士階級の多くの人々がキリスト者となりました。

戦国時代に到来したキリスト教は、植民地主義を邁進していたスペイン、ポルトガルの宣教師たちによるものであったところにキリスト教の布教の難しさがあったように思いますが、それは日本だけに限りません。
禁教、鎖国をしなかったアジア、アフリカ、アメリカ大陸の国々はすべて西欧諸国の植民地になってしまったのですから。

植民地化の計画が無かったなら、ザビエルから始まったカトリックのキリスト教も、日本の宗教の一つとして、日本の中に浸透していったのかもしれません。
日本古来の神道、2世紀に入ってきたユダヤ教、キリスト教、6世紀に入ってきた仏教。
「和を以て貴しとなす」と互いに容認し合ったのかもしれません。

「風渡る」には官兵衛の他にもう一人主人公がいます。
ジョアンという日本人イルマン(修道士)。この人物はフロイスの「日本史」にも記載されている人物であるが詳細は不明だからこそ、作者は思い切り想像をふくらませることができたのでしょう。

ジョアンは異国の風貌で、ポルトガル語に巧みで、通訳として働き、ヴィオラの名手でもありました。
彼は大友宗麟と異国人女性(ポルトガル人と中国人の間に生まれた女性)の間に生まれたとしていますが、このジョアンの出生秘話にしても、もちろん作者の想像上のもの。

この本は小説ですから、一部の史実をもとに想像巧みに肉付けしていき、黒田官兵衛が敬虔なキリシタンであったということを想定して書かれています。

官兵衛が側室を持たなかったことにキリスト教の愛の教えと重ねたり、荒木村重に地下牢に監禁された苦境をキリスト信仰によって耐え忍んだと描いたり、竹中半兵衛と官兵衛の謀略によって本能寺の変が起こったとしたり、官兵衛がキリシタン国家を造り上げようとしていたなど、わくわくする仮説ばかりです。

歴史的事実はわからない。一部の資料を基に、歴史家も小説家も想像を好き勝手にでっちあげることができるのです。
歴史的に正解だったことが、その後、新しい資料の発見と共に覆されていくことも多いのですから、荒唐無稽に見える仮説が真実になる日が来る可能性だってあるのです。

官兵衛が如水と名乗ったことはヨシュア記のヨシュアにつながるという説も、キリスト者にとっては魅力的な仮説です。

官兵衛はヨシュア記を知っていたのです。
官兵衛はヨシュアと同じ武将、戦士、軍人として、自分の職業にいかに忠実に生きることでキリスト者であり得るのか、と考え続けていたのです。
ヨシュアの生き方から学ぼうとしていたのです。

知略の人、官兵衛はきっと「我、キリシタンとして如何に生きるべきか」と考え行動していったに違いないと考えるだけで、私の胸はときめいてしまいます。

日本人は昔から、外から受け入れた文化や知識を、内部で咀嚼して熟成させて自分のものとして身につけていく特性があります。

官兵衛にとってのキリスト教もそうだったのではないでしょうか。
官兵衛にとっても、受け売りでない、借り物でない、自分の精神に即したキリスト教となっていったのです、きっと。

自らの家臣だけでなく、領民も大事にした官兵衛。
戦の時には交渉役として敵の城に向かい「命を粗末にするな、生きられよ」と説得した官兵衛(ここで、NHKドラマの岡田准一官兵衛の表情が浮かび上がってしまいます。素敵だった♡♡♡)この言葉もキリストの精神に根づいたものだと私は思いたいのです。

戦国時代と言う敵に囲まれた動乱の時代に「汝の敵を愛せよ」と諭すキリスト教の精神に、汝の敵といかに向き合うべきかをキリスト様から学びたいと願った官兵衛ではなかったのかと思うのです。

「風渡る」を読みながら、キリスト者の大先輩として官兵衛の精神に触れたいとの思いが、作者の仮説を超える想像をたくましくしながら、読み終えて後も私の心に聖霊の風が吹き渡っています。

マラナ・タ

読書の喜びをくださる神様に感謝です。