「弄花香満衣」これは2012年の春、お茶のお稽古の時のお床にかけられていたお軸である。
読み下せば「花を弄すれば香り衣に満つ」となる。

ごきげんよう! さわこです

お茶のお稽古をしていた時代、何が一番、私の心を震わせたのかと言えばお軸の言葉だった。
この漢詩にも、強く感動を覚えて、さらに調べつつ感想を書いておかないではいられなかった。
とにかく私は、感動を「文字」に残さないではいられない性分なのだ。
発表する先もあてもないのに、文章に綴らなくては、貴重な記憶が薄れていくように感じてならないのだ。

ブログを始めた時、以前に書き溜めたあれこれを、時期に合わせてアップしようと考えていた。

   
・・・・・・以下・・・・・お付き合いください。


 花を弄すれば香り衣に満つ 「弄花香満衣」    
  
これは、唐の時代の詩人、干良史(うりょうし)の「春山夜月」という詩に基づいた禅語です。

「掬水月在手」水を掬すれば月手に在りという前の句があります。
両者対句になっているのです。
掬すれば(きくすれば)は、掬えば(すくえば)と訓読みもできます。

お茶の掛け物としては、秋には前の句を、春には後の句を用いることが多いと言いますが、対句として両者を読むなら味わいも深まります。

「掬水月在手 弄花香満衣」
水をきくすれば月 手にあり、花を弄すれば香り衣に満つ

秋の夜、両手で水を掬ってみると夜空の月が手の中の水に映り、春の野辺で、花を摘んでいると、自分の衣いっぱいに花の香りがしみこむようだ。

美しい自然の中で、月も花も私も一体となるようで、清々しい気持ちになるよ。

月には手が届かないけれど、月は、私の手のひらの水の中にある。
遠く高く輝く月が自分のものになる。

また、私にはかぐわしさはないけれど、花を手折れば花の香りが私の衣にしみるほどに満ちてくる。

私は小さく無力なものだけれど、自然の中に手を延ばすなら自然の命と一つになる。

夜空の月も野の花も、すべての人に分け隔てなく輝き、咲いている。

しかし、自分の手で水をすくう、花を摘む、そうした自分の側からの働きかけがあってこそ、味わい知る喜びがあるよ。

「精進する」とは、こうした自分の側からの働きかけをいうのでしょう。
そのような気持ちを大切に何ごとにも精進していきたいものです。

そして、私はまたこの言葉からキリスト様のことに思いをはせました。

神様の真理は、高く遠く人の思いを超えているけれど、求めて手を伸ばすなら、私の手の中に与えられる。「求めよ、さらば与えられん」と言うように。

また、美しい花を弄び続けるように、いつも神様のことを思い、神様の御言葉を口ずさんでいるならば、キリスト様の香りが私のうちに、きっと広がっていくよ。



マラナ・タ
神様への尽きぬ憧れをもって、日常的な営みの中に示される神様のみこころを見出していくことが、キリスト者としての在り方ではないのかと思うのです。