ごきげんよう! さわこです

昨日の日めくりカレンダーの聖句である。

「神が私を招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」
テサロニケ第一4:7

何も自分が聖なる生活をしていると自信を持っているのではない。
酒、煙草、ドラッグ、不健康な生活に浸っているわけではなく、また、賭博、不道徳な関係、盗み、恐喝など反社会的なことをしているわけでなくても、重箱の隅をつっつけば、いくらでも、自分を責めることや自信を失うことが出てくるのだ。

特に私には、自分の感受性という色眼鏡で、人の心の内を勝手に探ってしまうといういけない癖がある。
「叩けば埃の出る体」なのである。
しかし、それでも、イエス様を「我が主、我が救い主」とする信仰を頂いた

あれこれの宗教や、あれこれの哲学や思想、芸術や文化を神様に代わるものとして、自分の人生観を築くことを棄て去った。
という選択だけで、「聖なる」者となったのだ。

「聖なる」とは、創造主なる贖い主なる三位一体の神様の側に立つ者ということである。
神様の者、神様の子ども、長兄イエス様の弟妹として頂いている、ということである。

神様を畏れ敬う気持ちよりも、神様を利用しようという思いが言動の端々に見える時、私はイラッとしてしまっていた。

しかし、それは私自身の姿でもあったのだ。

神様は、そういう種類の人々のために祈らないではいられない心を私に注いでくださったのだ。
いいえ、人の事ではない。私自身のためになのだ。

「神様があなたを招かれたのは、汚れた生き方から解放し、きよい生活をさせてくださるためなのですよ。自分にはとうてい無理なことだと、決めつけてしまわないでください。神様にはその力があるのですよ」
と、この御言葉を開いて、そう語りかけたい人たちがいる。
いいえ、自分自身に語り掛けたいのだ。

しかし、発展途上人の私に、人に向かって、そう語り掛ける資格などないのかもしれない。
私を信用できないかもしれない、しかし、イエス様は信頼に足るお方なのです。

マラナ・タ

「神様は、私たちを変える力がおありなのですよ。
思い切って、聖書の神様に人生を賭けてみませんか。『そのうちに』ではなく、『もっと勉強を積んでから』ではなく、『その気分になったらね』ではなく、今、ここで、神様に自分の心を明け渡す決意をしませんか。私たちには必ず明日があるという保証はないのですから。」